八百比丘尼伝説・真名子

八百比丘尼伝説っておもしろい!!「真名子の里『伝説八百比丘尼』を追う」小松義邦氏・著

八百比丘尼伝説とは?

八百比丘尼(はっぴゃくびくに/やおびくに)は、八百年生きたとされる女性の話です。
福井県若狭が発祥の地とされていて、不思議なことに、全国にその伝説が広がっています。

栃木県真名子の八百比丘尼伝説

栃木県栃木市西方町真名子(にしかたまち まなご)にも、八百比丘尼伝説があります。真名子では、「八百比丘尼」と書きながら、「おびくに」と読み、「おびくにさま」と呼んでいます。「八百」を「お」と読むわけではなく、「比丘尼」に敬称の「お」を付けた呼び方です。

小松義邦氏と『真名子の里 伝説八百比丘尼を追う』

栃木市在住の郷土史家の小松義邦氏が、「真名子の里『伝説八百比丘尼』を追う」というタイトルの私家版書籍を、2024年9月(令和6年)に発行しました。

伝説八百比丘尼を追う、の表紙

1998年の『伝説 八百比丘尼』刊行と研究の始まり

小松義邦氏は、1998年(平成10年)に真名子で開催された「第2回八百比丘尼サミット」のために、当時の「西方町」にて作成・刊行された書籍「伝説 八百比丘尼」作成の中心メンバーの一人でした。この書籍は、その当時に地元の旧家より発見された一次資料「五代尊 八百比丘尼畧縁起」という古文書を中心に、真名子の八百比丘尼伝説を読みやすく解説したものです。その後の八百比丘尼研究の論文などにも引用される価値ある内容となっていました。

新刊『真名子の里 伝説八百比丘尼を追う』の内容

その刊行から26年を経て、2024年9月(令和6年)に発行されたのが、「真名子の里『伝説  八百比丘尼』を追う」です。1998年の冊子『伝説 八百比丘尼』のその後を追い続けてきた内容となっています。

読み物として面白いだけでなく、八百比丘尼伝説の研究の書として、とても意味あるものとなっています。また、真名子の人々にとっては、地元のみならず近隣の人々が「おびくにさま」を大切にして救いを求めて拝んでいた、その理由を知ることができる、大切な一冊です。

伝説八百比丘尼を追うの本文の画像

章ごとの内容

本書は下記の内容となっています。

第1章の概要:八百比丘尼研究の誕生

1998年(H10年)に西方町で開催された「第三回八百比丘尼サミット」をきっかけに、西方町で八百比丘尼伝説の研究がはじまった様子が書かれています。小松義邦氏はまさに当事者なので、その際のさまざまな葛藤や興奮がリアルに伝わる記述となっています。

伝説八百比丘尼を追う、の、本文の一部の画像。前作の表示のあるページ

第2章の概要:伴信友と八百比丘尼伝説

若狭国誌という書物に伴信友という文筆家が書き入れをしたものがあり、少部数で出版されてもいるのですが、そこに、真名子の八百比丘尼は「十七人の夫を持った」と書かれていて、何人もの研究者がそれもひとつの伝説として記してきました。地元の伝説とは異なる話であることに疑問を持った小松義邦氏は、実際の古書を入手して丹念にその記述を調べ上げ、これまで誰もたどり着かなかった驚くべき新事実に、たどり着いています。

伴信友書入に決着をつけたあと、この章の後半では、真名子の八百比丘尼伝説がどういうものであるかが書かれます。古文書「五代尊八百比丘尼畧縁起」「真名古旧傳夢物語」と「勧進帳」の紹介と、伝説がこれまでどう取り上げられてきたかなどの記述となっています。

第3章の概要:会津金川寺の八百比丘尼堂

小松義邦氏が2023年(R5年)に御開帳に訪れた風景から始まって、会津金川寺の八百比丘尼伝説について、紹介し、真名子の伝説との類似点と相違点を探求します。

第4章の概要:八百比丘尼伝説と縁起販売説

第4章は「八百比丘尼の出現と『寺社縁起』の販売」。富樫晃氏が発表している、八百比丘尼伝説の全国伝播は若狭の縁起販売事業の結果と考えられるという、「画期的かつ斬新な切り口」について書いています。もしも本当にそうであるならば、全国伝播の合点がゆく、という視点での記述となっています。

第5章の概要:八百比丘尼と関連するキーワード解説

「キーワード解説として、録事法眼(録事尊)/庚申信仰/五大尊/五代尊/四道将軍についての解説となっています。

第6章の概要:地福寺と八百比丘尼像

真名子の八百比丘尼伝説発祥のお寺である地福寺の歴史をひもとき、略縁起と縁起販売説との関係を探ります。後半の「比丘尼像」の箇所では、真名子に祀られている比丘尼像について、伝説にあるように、本当に若狭の八百比丘尼像とペアのものとして作られたのか、真相に迫ります。

第7章の概要:真名子の里の八百比丘尼様

終章である第7章で、昔、近隣からも多くの女性が救いを求めて拝みにきた真名子のおびくにさまについて、なぜそれほどに崇められていたのかを、小松義邦氏ならではの視座で、語っています。

読んでいて、さまざまな個所でワクワクさせられ、エモーショナルな感情になり、終章では、歴史の中のあの頃の真名子に、優しい気持ちで立っていました。
ぜひ読んでいただきたい一冊です。

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第二部:貴重な史料と写真資料

下記の価値ある内容が掲載されています。
●五代尊八百比丘尼畧縁起・勧進帳 口語訳
●五代尊八百比丘尼畧縁起・勧進帳 読み下し文
●真名子旧伝夢物語 読み下し文
●洞雲寺 八百比丘尼尊御縁起和讃 & 略和讃
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西方町の写真家・古澤悦夫氏(元西方町長)撮影のカラー写真も、多数掲載されています。八百比丘尼堂の天井画をきれいなカラー写真で見ることができます。

八百比丘尼堂の天井画の写真
伝説八百比丘尼を追う、の冊子の新聞記事きりぬき

刊行情報

2024年9月(令和6年)
A5版・200P
著者/小松義邦
発行/小松義邦

こちらの冊子は、栃木市の各図書館でご覧いただくことができます。
また、在庫があるので(僅少)、お買い求めいただけます。800円+送料210円 です。

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小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/皆川広照・皆川氏、真名子の八百比丘尼伝説、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

小松義邦コラム/八百比丘尼と彫られた山あいの石塔のこと

このコラムは、小松義邦氏による、2025年11月3日のコラムです。▼

「八百比丘尼」と彫られた石塔

2024年9月に発行した「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」にて、『粟野町誌・民俗編』からの引用として、一文と写真を下記のように掲載した。一文は『……粕尾の森地区には「八百比丘尼」の石仏が祀られているし、…(地名)…には「八百比丘尼」の文字を刻んだ石塔が立てられ、女の人たちによって信仰されてきた』というもので、写真は、八百比丘尼と彫られた石塔の写真である。この写真は、粟野町教育委員会が、1983年(昭和58年)に粟野町誌六巻の中の一巻として発行した「粟野の野佛」掲載の写真である。

探して訪ね歩いた旅

そこには記さなかったが、私は2年前の2023年、この「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」をまとめるにあたり、この石塔を、自分の目で確認したいと思って、半日をかけてその地域を訪ね歩いたことがある。地元地域の方の何人かにお聞きしたが発見できず、年月が経って風化して崩れたか埋もれてしまったのだろうと、残念ながら諦めざるを得なかった。長男邦彦(このブログ作成者)とその話になり、「この写真の石塔が見つからないのは残念だね、僕も見たかった」と邦彦が言っていたのを覚えている。

小山市在住の中村氏からのご連絡

2025年10月に、小山市在住の中村宏氏からご連絡があった。中村氏は、以前「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」を読まれて、知人に配りたいと我が家まで何冊かをご購入に来られ、お話したことがあった。

ご連絡内容はというと、この石塔を探しに行き、発見しました、との驚きのお話だった。その際にとった拓本(和紙を当てて墨つけをしたもの ※石塔には墨はつけない方法)二枚をご提供くださるとのことで、お会いして、素晴らしい拓本をいただいた。一枚は真名子の八百比丘尼堂の堂守の荻原氏がお堂の中に、一枚は文化財保護委員の中村良一氏が「真名子夢ホール」(公民館)に飾ってくださることとなった。

発見時の詳細をお伺いしたところ、探し歩いて地元の人に尋ね、「こちらのことではないか」と案内してもらったそうで、探し当てた石塔は、下部の「丘尼」の文字のあたりは埋まっていた状態だったので掘り出して、上部は三分の一あたりで割れ落ちていたので岩石用の接着剤で応急修理をしてくださったとのこと。まことにありがたく、心よりお礼を申し上げ、その応急修理をおこなった旨を文化財保護委員の中村良一氏にもお伝えした。

小さな冒険の旅へ

さて、そうなると、直接この目で見たい、との思いになる。一度訪れて、見つからずに諦めた経緯があるから尚更である。中村宏氏からおおよその場所を伺い、晴れた某日、小さな冒険の旅にでかけた。

教わったように、川の源流沿いに連なる町筋から山間部へと20キロほどの道を車でさかのぼると、急に細々とした一本道になった。川沿いの路肩に気を配りながらもさらに5キロほど入っていく。だがなかなか見つからない。通り過ぎてしまったのだろうかと方向転換をして戻ったところ、発見した。

中村氏から、行きには見つからずに戻ってくるときに見つけられると思いますよ、と言われていたのを思い出した。道が湾曲している箇所にあり、川側に落ちないように意識が行ってしまうとちょうど目にはいらない箇所にあるのである。

身震いが出るほどの感動を覚えた。山側の高さ約1m程の傾斜地に六体の石像が並んでいた。向かって左から「十九夜」「二十六夜」「庚申塔」「八百比丘尼」、六本の腕を持つ「青面金剛像」、「南無」の文字のある石塔、となっている。それらが薄い青ゴケにくるまっている姿は圧巻であった。

山あいに石塔を作った意味

「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」に記載したとおり、真名子の隣の粟野町の『粟野町誌・民俗編』には、八百比丘尼信仰が盛んであったとの記述がある。当時、「健康と長寿を授け、はしかや疱癒にかかった子どもたちの命も救ってあげますよ」と手を差しのべる八百比丘尼さまは、女性、特に、母親にとって救いとなる信仰の対象であったことを、同書にて書かせていただいた。

山あいの民にとって徒歩という移動手段しかない当時、この地域から真名子の里の八百比丘尼堂までのおおよそ六里(26km)を超える山道は、頻繁に通えるものではない。子どもを育てる母であればなおさらである。

そこで、祈りの対象として、そして、ご利益を我が村にも是非との願いで、男どもに働きかけて、立派な姿の石に「八百比丘尼」と刻ませ、ゆかりの深い庚申様と並べて立てさせたのであろう。その石塔を目の前にして、当時のこの地域の人々の、ひたすらな信仰心、切実な思いに、あらためて感動した。

秋晴れの日に再訪

その話を長男邦彦にしたところ、ぜひ僕も見たい、となり、秋晴れの11月1日、長男邦彦の運転で、妻を含めた三人で、この石塔群を訪れた。澄みわたった山間の空気の中、二百年前に祈りを込めて彫られた石塔たちに、共に訪ねた妻や長男に限りなく幸多かれとの願いをこめて深い一礼を捧げたひとときであった。

結びに

割れて埋もれた石塔にふたたび息吹を与えてくださった中村宏氏に大いに感謝します。
そして、山深い渓谷にこれだけの足跡を残した八百比丘尼と、深い信仰の証を石に刻んで残した二百年前の粟野のこの地域の方々に、心からの敬意を表したい。

刊行情報

「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」 
2024年9月(令和6年)
A5版・200P
著者/小松義邦
発行/小松義邦
……詳細はコチラをご覧ください。

※なお、当コラムでは、石塔の場所は明示しない形としました。不特定多数の方の目にふれる可能性があり、いたずらや破損・盗難などを避けるためです。ご了承ください。

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小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/皆川広照・皆川氏、真名子の八百比丘尼伝説、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

小松義邦コラム/埼玉県宮代町の八百比丘尼伝説の現代語訳 を作ってみました

このコラムは、小松義邦氏による、2025年11月17日のコラムです。▼

「百間始大縁記(もんまはじまりのだいえんき)」との出会い

「おとうさん、埼玉県の宮代町(みやしろまち)の八百比丘尼伝説って知ってる?」と、長男邦彦(このブログ作成者)が私のもとに、一束の書面を持ってきた。聞けば、インターネットで埼玉県南埼玉郡宮代町の八百比丘尼伝説のページにたどり着いて、「百間始大縁記(もんまはじまりのだいえんき)」という古文書のテキスト化されたPDFを見つけて、プリントアウトしたとのこと。「ホームページであらすじはわかったんだけど、内容を詳しく読んでみたい。でも現代語訳じゃないからよくわからないんだよね」と言う。

栃木市西方町真名子の八百比丘尼伝説(おびくにでんせつ)を研究する一環で、多くの書や論文、史料を見てきたが、埼玉県の宮代町というところに古文書のある八百比丘尼伝説があるとは聞いたことがなく、手持ちの書や論文を見てみたが、やはり記載がなかった。初めて知る八百比丘尼伝説の文書の原文を読めるとは、八百比丘尼さまの「追っかけ」をしている者としては、望外の喜びである。

宮代町の公式ホームページのこのPDFを掲載しているページ(コチラ)の記載によれば、「百間始大縁記は…、石井修次郎編、蓮田文化協会発行の蓮田市文化叢書第54号(昭和49年12月)に収録されているものが現在確認されているもので最も古く、寛政9年(1797)の年号が記されているもの(天保2年に書写)を収録しました。また、参考に西光院所蔵の元治2年(1865)のものと明治6年判(写)を昭和14年に写したものも収録しました」とある。

年代の離れた三つの写本のそれぞれがテキスト化されて掲載されているわけだ。
「村が始まったころの話」のひとつとして、八百比丘尼の話がある。

現代語訳(口語訳)を作ろうと思った理由

さっそく読み始めた。最も古い写本に意味がわからない記述や時系列がおかしい点などがあり、元治二年のものでさらにわからなくなった部分と、逆に当初の意味不明な個所が納得の行くかたちになっている箇所もあり、三つ目ではさらに……という構造になっていて、三つを合わせると理解がしやすく、楽しめる物語であることがわかった。

八百比丘尼伝説のひとつとして個性を持った内容で、現代に引き継がれるべきおもしろさを持っているので、ぜひ後世に残したく、三つの写本の内容を整理し直して、八百比丘尼の話のところの現代語訳を作成した。三つの写本の内容の組み合わせなので、原文に忠実というものではないが、三冊の写本の内容を再構成しての現代語訳で、誰にでも楽しく読んでいただけると思う。
※読みやすくするために、原文にはない小見出しを付けている。

地元宮代町や他の研究者の方による現代語訳もあるかもしれないので、あくまでも小松義邦版として、お許しいただければと思う。原文を尊重されたい方や地元の方にはご迷惑かもしれないが、なにとぞ目をつぶっていただければと切にお願いする。

『百間始大縁記』八百比丘尼伝説の項 現代語訳(小松義邦版)

そもそも、百間の地の始まりを詳しく話しますと次のようになります。

この地が開け始めたころ、どこからともなく移ってきた五人の人たちが、寺村の東神外から西神外の道筋に家を建てて住むようになりました。

庚申講の夜に現れた男

ある時、五人が集まって庚申待ち(六十日に一度廻ってくる申の日の夜に、庚申神を祀ったり、四方山話〈よもやまばなし〉をして一晩を寝ずに明かす信仰)をしようとしているところへ、何処から来たのか四十歳ぐらいの男が立ち寄って、「これは何の集まりですか」と尋ねるので、「これから庚申待ちをすることになっています」と答えました。するとその男は、「何人(なんにん)で行うのですか」と尋ねるので、「五人だよ」と男たちは答えました。

するとその男は、「庚申講は五人でやるものではないので、私を加えて六人でやるようにしませんか」と言います。五人でやるものではないというのが本当かどうかは分からなかったのですが、誰からも異論は出なかったので、「それではどうぞ仲間にお入りください」と答えました。男は大変喜んで「それはありがたいことで…」と礼を述べながら汚れた足を洗って座敷へ上がり、たちまちー同に訓染んで四方山話に加わったり、庚申神にお祈りをするなどで一夜を明かしました。

やがて鶏の声を聞くと。男は灯明を消し、仲間に入れてもらった礼を言いながら暇乞い(いとまごい)をして何処かへ帰って行きました。

その男の家で開かれた庚申講

庚申講は決まった仲間の集まりなので、六十日ごとに行われる庚申講の宿はもちまわりになります。やがて、次がその男の番となりました。ところが、それまでその男が何処に住んでいるのか誰も分かっていなかったので、「ところで、貴方の家はどこですか」と尋ねると、「私は龍宮の者です」と言いました。五人にはよくわからない答えでした。

日暮れになると、その男が講の仲間を呼び集め、「どうぞこちらへ」と先に立って案内するので一同が付いて行きました。下の谷(しものや)から逆井(さかい)の辺りまで来ると、今まで見たこともない大きな屋敷が見えたので、宿主の男に「あれは見たことのないお屋敷ですが、どなたのお屋敷でしょうか」と聞きました

男は、「あれは私の家です」と言います。ー同は、「さてさてまわりの林もご立派で…」と驚きながら付いて行きました。それからさらに二、三丁(一丁は約109m)行きますと、やがて立派な長屋門がある大きなお屋敷にたどり着きました。門をくぐって中に入りますと玄関先には七、八人の老人が羽織袴(はおりはかま)で出迎えに出ていて、講中の一人一人をていねいに客座敷へと案内し、煙草盆や茶菓子を出すなどのもてなしをしてくれました。

一休みをしたあと、亭主が「皆様方には初めておいでいただきましたので、大広問などを見てください」と言って先に立つので付いて行くと、今まで見たこともない広さの座敷がありました。一岡は驚いて、「これはまた何畳敷の部屋ですか?」と聞きますと、「千畳敷ですよ」といいます。「えっ?!」と驚いているうちにまた次の間へ案内され、「これは五百畳敷です」という。それから、茶の間、料理間、台所などを案内され、まず屋敷の広さに一同は驚くばかりでした。

こもに包まれた肉

その後は一同で庚申講に入りましたが、そのうち、五人の中の一人が、たまたま勝手(調理場)を覗くと、何やらこも包み(あらく編んだいぐさで包まれたもの)を運んできたので、密(ひそ)かに見ていると、連ばれて来たのは十二、三の娘のように見えました。

料理人の一人が「まずこれを料理しよう」などと言って別の男と相談を始めたので、それを聞いた男はびっくりして座敷に戻ってきました。そして、見てきた様子を他の四人に密かに話し、「あれは確かに十二、三の娘であった。この料理は絶対に食わない方が良い」などと相談しました。

庚申神への祈祷が終わったあとたくさんの料理が出てきました。五人の男たちもいろいろとご馳走になり、吸い物や野菜の煮付けなどで盃を数杯重ねました。そのあとの二ノ膳にそれらしきものが出ましたが、五人は一切食べずにいました。五人のうちの八兵衛だけはその肉の料理を珍しそうに見て、「これは土産にもらって帰ります」と鼻紙(ちり紙)にくるんで懐に入れました。

酒ばかり呑んでいると寝てしまうので、御膳を片付け、その後は茶飲み話に花を咲かせました。
やがて、鶏も鳴き始めたので灯明を下げ、口々に礼を言って立ち上がり、亭主も尼沼道まで出てきて見送りをしてくれたので、そのあとは五人の者達もわが家への道をたどりました。

次の日の朝の土産物のゆくえ

次の日の朝、目を覚ました八兵衛が妻に「昨夜鼻紙に包んで持って帰った土産物を知らないか」と尋ねましたが、妻は「知らない」と答えます。八兵衛には三歳の娘が居たので、八兵衛はこの子が食べたのであろうと思い、そのことはそれ以上気にしないまま日が過ぎて行きました。

行基、老人と出会う

さて、話はちょっと変わります。この時代のことを言いますと、時は人皇四十六代孝謙天皇の御代の、天平十三年秋の終わりの頃のことでした。時あたかも僧の行基(ぎょうき。のちに、上人〈しょうにん〉、大僧正〈だいそうじょう〉となり.さらには菩薩と崇められた)がこの地に行脚(あんぎゃ)していて、この村の道辻で八十歳ほどの老人と出会いました。

老人は行基に向かい、「貴僧を見かけたので、是非とも頼みたいことがあります。それは、この地の平穏を願うことです。この地は都から遠く離れていて治安も行き届かず、邪見(じゃけん)、放逸な者も多いところですが、村のみんなの頼るべきものがありません。せめて仏の救いがいただけるように阿弥陀如来の像を刻んでいただき、その御堂を建立していただきたいのです。仏堂ができればさらに薬師如来と五社権現も勧請していただければ、私はその堂守りとなってこれを祀り、この身が死んだ後もここの守り神になります。ぜひぜひこの願いを聞いていただきたい」。そう言ううちに、その姿が掻き消すように消えてしまいました。

行基はこの場の有様(ありさま)に奇異の思いを抱きながらも、この老人の願いを聞き届けたいと思い、仏像にするための良い木を選び、一刀三拝(一彫りごとに三拝)しながら如来の尊像を刻み始めました。

行基、娘と出会う

ところが、そこへ八兵衛の娘が毎日のように避ぴに来るようになり、木くずを散らすなどして行基の気も散らすので、ある日、娘に向かい、「これ娘、おまえがここへ来て遊ぶので、木の屑がおまえに当たっては可哀想と思って私の気が散り、如来像の彫りが進まない。明日からはここへ来てはいけない。私の言うことを聞いてくれれば、遠い将来ではあってもおまえを弁財天として祀ってやるので、必ず聞きわけよ」と言い聞かせたので、次の日から娘は来なくなりました。

この行基が阿弥陀如来像を刻んでいる茅屋(ぼうおく)のある辺りは、若狭の国からの通い船が立ち寄る所で、その船に水を供給する場所として、若狭の船の船頭が地元の許しをもらって井戸を掘ってありました。そのため、この井戸を「若狭井戸」と呼んでいましたが、その後の年月を経て「わかさいど」がいつからか「さかいど」となり、やがて「逆井(さかい)」といわれるようになりました。

娘、船で眠り、若狭へ

ある時、ここへ大きな船が着いて何日かの泊まりがありました。そこへ近所の子供たちが何人か寄ってきて、船頭の目を盗んで船に入り込んでしまいました。六歳になっていた八兵衛の娘もその中にいて、ふざけながら船のへさきまで走り込んで、その辺にあったこも(いぐさをあらく編んだもの)をかぶって喜んでいましたが、やがてそのまま眠ってしまいました。船頭はそのことに気がつかずに若狭に向かって船を出し、風をはらんで四十里ばかりを一気に走りました。

やがて眠っていた娘が起き出してきたので船頭はびっくりして「わっ、子どもがいる!」と叫びましたが、順風満帆の船を止めるわけにもいかず、とうとうそのまま若狭国小浜の港へ着いてしまいました。それから、おまえは何処から乗って来たのか、何処の子かといろいろ聞きましたが、子どもも答えられないままに日が過ぎました。

船頭は、子どもを育ててくれる人を探し、港の近くに子のいない夫婦がいて、子どもを育ててくれるということになって、娘はその夫婦の子になりました。

やがてのことに、その両親も亡くなりましたが、なぜか娘は年をとらず、いつまでも若いままの姿を保ち、いつの間にか八百年を経たということです。

この娘の死後、永くこの話が伝えられ、やがてのことに、若狭国小浜ではこの娘を「八百尼」と祀って年々の祭りを行うようになりました。
このような長生きは、その昔、龍宮よりの人魚を食したためであると人々は言い伝えています。

行基が果たした約束

さて行基は阿弥陀如来を刻み終わったあと、かの老人の姿を刻んで五社権現とし、娘の面影を彫って弁財天とする約束を果たしました。行基は村の人たちに言いました。「これからここにお堂を建てるための浄財集めをするためにあちこちを行脚するのだが、その前に、いったいこの村の名は何というのか教えてもらいたい」。それに答えて村人が言うには、「うんにゃ、この村はできたばかりで名前はなんというのか俺たちもまだ知らねぇ」とのこと。

行基はあきれて、「それでは話にならんので、とりあえず村の名を決める必要がある。そのためには、何処から何処までがこの村なのかが分からないと決められないので、東神外の村境から西神外の村境まで竿入れ(間竿〈けんざお〉を繰り返し送って長さを測る)をするがいい」と言いました。人々は「かしこまりました」と、早速お互いが立ち会って竿入れを行ないました。「百間(ひゃっけん)あります」と言うと、行基は、「よし、それではとりあえずこの村を百間村(ももまむら)と呼ぶことにしよう」と言いました。この「百間」は、初めは「ももま」と呼んでいましたが、いつのまにか「もんま」と呼ばれるようになりました。

さて、そこで、行基上人は、阿弥陀如来と五社権現、弁財天などのお祀りをするためのお堂建立の費用を作るために自分の故郷の常陸国へ帰りました。その頃の常陸の領主は安部仲丸殿でしたので、行基は仲丸殿にお堂建立のことをお願いしましたところ、安部仲丸殿は行基の願いを聞き届けて、家臣の鈴木日向守忠勝、島村出羽守直政の両人を百間に遣(つか)わし、天平十五年に阿弥陀堂が完成したことはめでたいことでありました。

※八百比丘尼にまつわる話はここまでです(小松義邦)

解説

楽しんでいただけただろうか。
子どもが船で移動するくだりは、ほかの八百比丘尼伝説で聞いたことがなかった展開だ。また、八百比丘尼の全国行脚に一言も触れていないままで終わっていることも珍しい。八百比丘尼伝説が広められた時の約束事であろう「小浜回帰」がちゃんと入り込んでいることへの感嘆もあった。

「龍宮・人魚・船」の謎

興味深い点がある。
海のない埼玉県であるのに、「龍宮」「人魚」「船」という言葉が物語に組み込まれていることだ。

全国に広がる八百比丘尼伝説においては、伝説発祥の地とされる若狭(福井県)に伝わる「龍宮」「人魚の肉」が、海のない地域では「山中」「不思議な貝」となっていることが多い。海のない地域で、その地の物語として語り継がれるためは、その変更が必要だったのだ。福島県の喜多方の金川寺や栃木市西方町真名子の伝説でも、「山中」であり「九穴の貝」となっている。

なぜ、百間の物語では、「龍宮」「人魚」のままであり、さらに「船」までも登場しているのか。

「龍宮・人魚・船」の答え

長男邦彦が「百間始大縁記」と一緒に渡してくれたものに「百間志料」があった。百間の地に伝わる伝説や史料からさまざまな考察を行っている、明治40年に住職山高龍観師が執筆した書物で、宮代町のホームページにPDFがアップされている(下記参照)。
そこには、「尼沼考」として八百比丘尼についての掲載もある。
その史料に「地勢考」という項目があり、百間の地の成り立ちの言い伝えが描かれていて、そちらを読んで合点が行った。

抜粋して現代語訳にすると、次のようになる。
「百間村は、古代においては、江湾の沿岸にして、埼玉郡の東の涯(はて)だったことは明らかである。古くは武蔵と下総(千葉)の間に入江があり、その入江は武蔵の地先まで入り込んでいた。百間の始め、南は海、北は沼、ここに小高い台地があって、そこを出土ヶ原と呼んだ。入り江が涸れて陸地になるころには、今の古川が利根川の本流として大きく残ったが、そこに中州ができ、さらに潮水が退いて丘となったのは900~1200年のころと思われる」。

この地に伝わる言い伝えでは「百間の始めは南に海があった」のである。

よって、「この地(百間)が開け始めたころ」のこととして語られる八百比丘尼のお話(お堂ができた天平十五年・743年の少し前が想定されている)の中で、停泊できる場所があって若狭と船が行き来していることになっていても、「龍宮」や「人魚」という言葉が出てきていても、その物語を語り、聞く人々にとって、違和感はなかったであろう。

かつ、百間は古(ふる)利根川(昔の利根川の本流)に接している地域なので、今の東京湾から舟がはいっての河川舟運(かせんしゅううん。舟による運送)なども盛んで、山に住む人々と違って、海や船の話を受け入れやすかったのであろうとも思う。

伝説集未収録の不思議

なお、この、百間始大縁記の八百比丘尼伝説は、古文書の写しがあって、文字で残されている貴重な伝説でありながら、埼玉の著名な伝説集である『埼玉の伝説』(韮塚一三郎著・1955・関東図書株式会社)にも『埼玉県伝説集成』(韮塚一三郎編著・1973~1977・北辰図書出版)にも、収録されていない。

どちらも埼玉各所に残る八百比丘尼伝説を収めていて、住民から聞き書きで採取したものも多い。そうした中で、これだけの写本が残っているこの物語がなぜ漏れたのか、不思議である。

宮代町がホームページでしっかりと公開してくださっていることで、目にすることができ、現代語訳まで作れたことは、私にとって幸せなことであった。

補足 「百間の始め、南は海」について

ところで、下図を見ていただきたい。関東平野の昔の海岸線が描かれた地図である。
〈『日本の地形4 関東・伊豆小笠原』(貝塚爽平他編、2000、東京大学出版会)P21より〉
左側上部に小松が赤い点を入れさせていただいた。そこがおおよその百間の位置である。

言い伝えの「百間の南に海があった」という時期が、実際にあったであろうことがわかる。

ただ、この海岸線図は、「縄文時代前期・約7000年前の海岸線」である。
1926年(大正15年)に、東京帝国大学教授の東木龍七(とうき りゅうしち)氏が、貝塚の分布から関東平野の台地がかつて海に覆われていたと考え、地形的考察を加えて特定した「縄文時代前期・約7000年前の海岸線」の図に基づいて、上記書籍の編者が関東平野の地図にしたものとのこと。

つまり「縄文時代に今の百間のあたりは海だった」ということは言えるが、百間という村の始まりの頃に南は海であった、ということではない。その間には数千年の時間がある。

不思議なようであるが、実は、百間に限らず、「武蔵(現在の東京、埼玉、神奈川にまたがる広い地域)は昔海だった」という言い伝えは、古くは奈良時代・和銅6年(713年)頃に編纂されたとされる『武蔵野国風土記』(現存なし。後代の書物で引用として伝わる)にもあり、それ以外にも、多く残されている。地形的な推測、貝塚の出土からの推測などからのものであったと言われている。

(上記の海岸線図については、araki minoru氏のブログ『花見川流域を歩く』のコチラのページで、上記詳細を知ることができた。araki minoru様、感謝します)

補足2 百間が登場する、他の八百比丘尼伝説

『埼玉県伝説集成』(韮塚一三郎編著・北辰図書出版・中巻/歴史編は1973刊行)には、埼玉全域の八百比丘尼伝説が複数収録されていて、その1つに、百間の天沼に伝わる八百比丘尼物語がある。若狭国から一人の比丘尼が来て、魚を食物とし、一年中着物を着ておらず、顔美しく、髪は真っ黒で、八百年生きたから八百比丘尼といい、天沼に祀られている、というものだ。

また、『岩槻市史 民俗資料編』(1984)に「黒谷」地域に伝わる八百比丘尼の話の掲載があり、黒谷の娘が若狭に嫁ぎ人魚を食べて八百年を生きて、後年黒谷に帰ってきて、百間村で没した、と書かれている。

→→ 詳細はコチラ (上記2点の詳細および、他の伝説集について記載)

原文史料について

上記現代語訳(小松義邦版)の原文史料PDFは下記ホームページに掲載されています。
▼埼玉県宮代町 公式ホームページ 郷土史料「百間始大縁記」のページhttps://www.town.miyashiro.lg.jp/0000002883.html
▼同「百間志料」のページ
https://www.town.miyashiro.lg.jp/0000002882.html 
▼「百間始大縁記」の明治6年2月に書写したものを昭和14年に再度書写したものページ
https://adeac.jp/miyashiro-lib/viewer/mp200032-200010/mi32/

栃木市西方町真名子の八百比丘尼伝説の刊行情報

こちらは、栃木県栃木市の真名子の八百比丘尼伝説についての本です。

「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」 
2024年9月(令和6年)
A5版・200P
著者/小松義邦
発行/小松義邦
……詳細はコチラをご覧ください。

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小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/皆川広照・皆川氏、真名子の八百比丘尼伝説、西方町の歴史・西方氏ほか
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栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

八百比丘尼伝説— 栃木・真名子の「おびくにさま」伝承<コラム>

『「伝説 八百比丘尼」を追う』表紙

日本全国に伝わる八百比丘尼

「八百比丘尼(やおびくに・はっぴゃくびくに)」は、日本各地に広く伝承される不思議な伝説です。物語の多くは「人魚の肉を食べたことで不老長寿となった女性」が主人公となり、やがて出家して比丘尼(尼僧)となった、と語られています。
八百年もの長きにわたって各地を巡り歩き、人々に仏法を説き、植樹や教えを広めたとされます。「長寿」「神秘」「説法」などの語句とともに語られます。

各地に残る八百比丘尼の足跡

八百比丘尼は全国のさまざまな土地に伝承を残しています。

  • 福井県小浜市 — 「空院寺」と「新明神社」のそれぞれに伝説があり、縁起も残されています。空印寺には「八百比丘尼入定洞」が伝わり、洞窟の前には比丘尼が植えたとされる椿の木が残っています。椿は永遠の生命の象徴とされ、比丘尼の伝説と重なります。
  • 和歌山県日高川町 — 「小竹(おだけ)八幡神社」がゆかりの地とされています。
  • 福島県喜多方市 — 「金川寺(きんせんじ)」に伝説が残されていて、八百比丘尼像があり、毎年5月2日に御開帳が行われます。
  • その他の地域 — 新潟や和歌山などにも類似の伝承が散見され、日本各地に「人魚の肉」「比丘尼」「長寿」という物語の要素が点在しています。

このように、八百比丘尼は特定の土地に限らず、全国規模で語られ続けてきた伝説です。

栃木・真名子に伝わる「おびくにさま」

栃木県栃木市西方町真名子にも、八百比丘尼伝説が残されています。ここでは「八百比丘尼」と書いて「おびくに」と読むのが特徴的です。「八百」を読まず、「比丘尼」に尊称「お」をつけた呼び方で、地域の人々が親しみと敬意を込めて伝えてきました。

真名子に伝わる由緒は「五代尊 八百比丘尼略縁起」という古文書に記されており、伝承の基盤となっています。これは、多くの地域の口承伝説とは異なり、史料として残されている点で特に貴重です。

小松義邦氏の研究と伝承の継承

郷土史家・小松義邦氏は、真名子に伝わる八百比丘尼の伝承を長年にわたり調査・研究してきました。

  • 1998年 「第3回八百比丘尼サミット」にあわせて冊子『伝説 八百比丘尼』を、中心メンバーとして制作。真名子の古文書や地域に残る伝承を紹介しました。
  • 2019年 『真名子の地名と伝説の旅』を刊行。地域の伝説や地名の由来を体系的にまとめ、八百比丘尼伝説の位置づけをさらに深めました。
  • 2024年 『真名子の里「伝説 八百比丘尼」を追う』を刊行。初期の研究からさらに発展し、地域資料の掘り起こしや比較検証を加えた内容となっています。

このようにして、真名子の「おびくにさま」は、単なる伝説ではなく、郷土史研究と結びついた歴史的な遺産として現代に伝えられています。

真名子伝承の魅力

真名子の八百比丘尼伝説には、いくつかの特徴があります。

  • 全国的な「不思議な肉を食べて不老不死となった」という物語と共通する部分を持ちながら、地域独自の呼び方「おびくにさま」として親しまれている。
  • 古文書「五代尊 八百比丘尼略縁起」があり、伝説に実証性を持たせている。
  • 地元の郷土史家が調査・出版を重ね、伝承が単に語られるだけでなく研究対象となっている。

これらの点は、真名子の伝承が単なる「昔話」ではなく、地域文化の一部として継承されていることを示しています。

まとめ

八百比丘尼は、日本各地に伝わる伝説ですが、栃木・真名子の「おびくにさま」には独自の価値があります。全国伝承の一端を担いながらも、古文書に裏付けられた信頼性と、地域の人々による研究と継承が息づいているからです。

関連記事・リンク集

参考書籍

  • 小松義邦『伝説 八百比丘尼』(1998年)
  • 小松義邦『真名子の地名と伝説の旅』(2019年)
  • 小松義邦『真名子の里「伝説 八百比丘尼」を追う』(2024年)

「真名子の地名と伝説の旅」は、八百比丘尼伝説を持つ、西方町真名子の歴史がわかります

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八百比丘尼伝説に関心のある方は、下記もご覧ください。
真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う(2024年9月・令和6年/A5版・200P)――――――――――――――

「真名子の地名と伝説の旅」は、2019年10月(令和元年)に、小松義邦氏が発行した冊子です。

西方町真名子は、八百比丘尼伝説を持つ、浪漫のあるエリアです。この冊子では、真名子地域の「地名」と「伝説」について、小松義邦氏による調査・研究の結果が解説されています。

2023年5月(令和5年)に発行された「西方町の地名と伝説の旅」にも真名子の地名と伝説についての記載がありますが、その5年前に当冊子は発行されていて、「西方町の……」に紙幅等の関係で収録できなかった内容も記載されています。

後半には、古文書「真名古舊傳夢物語」の読み下し文と、古文書「五代尊八百比丘尼畧縁記」の小松義邦氏による口語訳を掲載しています。

2019年10月(令和元年)
B5版・135P
著作/小松義邦
発行/小松義邦

こちらの冊子は、栃木市の各図書館でご覧いただくことができます。
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なお、在庫がありますので(残3冊)、ご購入希望の方は、下記からご連絡ください。
500円+送料をお振込みいただきましたら、お送りします。
(品切れになってしまった場合はご容赦ください)
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八百比丘尼伝説に関心のある方は、下記もご覧ください。
真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う(A5版・200P/2024・令和06)――――――――――――――

小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/真名子の八百比丘尼伝説、皆川広照・皆川氏、西方町の歴史・西方氏ほか
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栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

「伝説 八百比丘尼」は西方町真名子の古文書の読解文と口語訳の冊子です

「伝説 八百比丘尼」は1998年(H10年)に、西方町で発行されました。「第三回八百比丘尼サミット」の開催に間に合うように作成された冊子です。

真名子に古来から伝わる八百比丘尼伝説(真名子では「おびくに」と呼びます)の元となった古文書「眞名古舊傳夢物語」「五代尊八百比丘尼畧縁記(勧進怗付き)」の読解版と口語訳、そして詳細な解説が掲載されています。

下部に口語文が載っているのでとても読みやすく、丁寧で多岐にわたる解説があるため、お話をしっかりと理解することができます。
今(2025年春)では、多くの八百比丘尼伝説の研究書・研究論文が扱う、貴重な一冊となっています。

一緒に、お子さんでも読める「真名子の里のおびくにさま」という小冊子も作成されました。

1998年(H10年)
B5版・217P
編集/誇れるまちづくり21人委員会
  (編集委員長 小松義邦)
発行/西方町(※栃木市併合前)

こちらの冊子は、栃木市の各図書館でご覧いただくことができます。

※この26年後の2024年に小松義邦氏が発行した「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」も、読みごたえのある、興味深い内容となっています。

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小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/真名子の八百比丘尼伝説、皆川広照・皆川氏、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

歴史読本読者コーナーに掲載された「伝説の里真名子と八百比丘尼伝説」

「歴史読本」の1997年(平成9年)7月号の読者コーナー「れきどく故郷(ふるさと)紀行」に掲載された、小松義邦氏の投稿「伝説の里真名子と八百比丘尼伝説」がこちらです。

お問い合わせはこちら

小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/真名子の八百比丘尼伝説、皆川広照・皆川氏、西方町の歴史・西方氏ほか
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栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。