小松氏自身のための資料「石裂山考」
小松義邦氏が2022年に自身のために作成した「石裂山考」という資料があります。多数の書籍や論文の複写を集めたもので、配布物ではありません。「散逸を防ぐために研究資料としてまとめておくことにした」というものです。
なぜ石裂山に惹かれたか
なぜ小松義邦氏が「石裂山(おざくさん)」について考えたのかというと、皆川正中録に「皆川秀光が…石裂の神を信仰するようになった」「広照は……日頃信心する石裂山に向かい…祈りを捧げた」という記述があったためだそうです。
そして、石裂山には、峰をはさんで、鹿沼市上久我に「石裂山加蘇山神社(おざくさんかぞさんじんじゃ)」が、粟野に「尾鑿山賀蘇山神社(おざくさんがそさんじんじゃ)」があって、皆川氏がどちらを信仰していたのかが書かれたものはないようで、小松義邦氏はその点にも関心を持ったそうです。
ここでの掲載内容
この冊子に「まえがき」「あとがき」があり、小松義邦氏の思考の流れが書かれているので、石裂山を研究される方の参考になるのではと思い、ここに編集・抜粋して転載します。
併せて、冊子の目次を、小松義邦氏による「石裂山を知るための資料の紹介」として転載します。
まずは、冊子の目次です。そのあとに、まえがき・あとがきからの、編集抜粋が続きます。
冊子の目次


まえがき・あとがきからの抜粋
(1)石裂山について考えるようになったきっかけ
皆川城内町の街づくり協議会文化部会の麦倉氏の長年の懸案であるという近藤兼利著『皆川広照伝』の復刻版のお手伝いをさせていただいた。
その『皆川広照伝』とペアになる書物に『皆川正中録』がある。
現栃木市周辺の中世の歴史に、皆川広照とその戦物語としての『皆川正中録』は欠かせないものであるが、この物語の全体を読んだことがあるという人は意外に少なく、「図書館で見付けて喜んだまでは良かったが、漢字が多くあって、しかもフリガナが無いので途中までしか読めなかった」とか、「古書店で見付けて買ってきたが、結局は読み通せないままになっている」という声を聞くたびに、このような方々にまず読んでいただいて、それからじっくりと読み下し本に移ってもらえればいいのでは、との思いで、口語訳『別本皆川正中録』の制作を思い立ち、完成させた。
この物語の中で、応永元年の頃(1349年頃)、皆川秀光が将軍に追われて会津田島から都賀郡岩田郷滝の入(たきのいり)に入り、しばらく住まううちに信心の心を起こして石裂(おざく)の神を信仰するようになったという(『口語別本 皆川正中録』13頁)。
その後、天正12年(1584年)に北条氏直らが皆川城に攻め寄せた時、「山城守広照は水浴して身を清め、日頃信心する石裂山に向かい…一心に祈りを捧げた」という(同署73頁)。
この「石裂山の神社」のことが気になり始めた。
石裂山の神が皆川家の背骨(バックボーン)になっているとしたら、もう少しこの山の信仰のことを知りたい、と思ったのである。
そこで、後追い研究になるのだが今までに読んで記憶に残っていた書物や雑誌の記事をもう一度読み直してみたいと思い立ち、手元に積んであったコピーのファイルを捜し、その後に出た書物にも気配りをして図書館通いを続けてみた。
そんなこんなでいろいろ集めた物をまたコピーのままにしておくと紙くずになってしまいそうなので、研究資料としてまとめておくことにした。
(2)各論文等を読んで思うこと
早乙女常郎氏の「勝道伝説と石裂山」(鹿沼市林 第17号)がほとんどすべてを語っていて、細矢藤策氏の貴重な「翻刻 石裂三祠山記」(鹿沼市林 第15号)・「翻刻 おざく山之記」(鹿沼市林 第16号)がその中心にある。
細矢氏の2書は口語訳を作った。この2書を読み継いでゆくと、信仰形態の変化がよく見えて面白い。前書で説く「五心経津尊(ごしんふつのみこと)」の祠が、後世では「御心仏(ごしんぶつ)」から「護真仏(ごしんぶつ)」を経て「御真仏(ごしんぶつ)」という仏に替わり、久我式部が勧請したという「柿ノ本人麻呂(ひとまろ)神社」が「日留神(ひとまるがみ)」に呼び変わってゆくところで変に感心させられた。
また、この資料集の後半に見られる市内川原田町の小野家と賀蘇山神社との関係事項が驚きであった。これら一連の各論を見ていくと、皆川家の石裂山信仰の窓口となったのは入粟野村の賀蘇山神社であろうかと思わせられる。
その理由は、これも早乙女氏が指摘しているように、草鞍戦の26年ほど前に、久我氏の勃興によって加蘇山神社近辺に変革があった。この久我氏らの兵火によって神社が焼け落ちた頃であるとのことで、参拝はもちろんのこと、供物を運ぶ代参も叶わなかったことであろうと思う。一方の入粟野村の賀蘇山神社は、皆川領であったと思われる川原田村・赤津村の信仰団に以前から支えられていたと考えられるので、当時としても、広照の念頭には、入粟野村の賀蘇山神社があったと思われる。
古代の石裂山の神に神位が授けられたことに始まって、驚くほどの参拝客が集まり、山の両側にふたつの神社があった。
それぞれに何があり、どのような推移があったのかをじっくりとお読みいただけるように、順を追って組み立てさせていただいた。
思いもかけない深追いになってしまったが、これはまたこれなりに面白いと思った。
(3)小野氏・川原田の三日月神社のこと
資料後半で読める賀蘇山神社と小野氏の話は、20年前に三日月神社の話と一緒に「目で見る栃木市史」で読んでいたはずであるがなかなか思い出せなかった。市史掲載の三日月神社の話(下記※参照)に興味が沸いて、市史を見終えた足で、そのまま栃木市運動公園の北側にある三日月神社へお参りに行った覚えがある。
※江戸時代後期から昭和の初めにかけて盛〈さか〉った川原田の三日月神社では、1月3日の縁日には参道の両側に何軒も豆腐店が並び、お参りに来た人々がその豆腐を購入して神様に供えるので、神社は供えられた豆腐をうらから豆腐店に売り、豆腐店はまたそれを売る、という、関係者すべて満ち足りて、「豆腐もそれを繰り返しているうちに角が取れてまるくなるという次第だった」という話。
小野氏については、単に書物に遺(のこ)っているというだけではなく、賀蘇山神社に「川原田座敷」と言われる所まであったという記録は、小野家の立派な歴史であり、神社の歴史でもある。また、ひいては栃木市の人たちの確かな歩みでもあったということで、皆川広照家の尊崇した石裂山の神(尾鑿山という文字は地図上には出なくなった)の拝殿は粟野側の賀蘇山神社であったことは充分に考えられる。
太田亮著『姓氏家系大辞典』(角川書店)によれば、小野氏の基本は貴胤(きしゅ)であって、全国的には八十余りの派生があるという。市史にあるような小野朝臣(あそん)道綱の政変上の罪ということはよくあることで、81頁にあるように天皇家内部の争いから伏見天皇暗殺未遂事件が起こるが、それにからまる前後の事情の中からの罪によるもの(ある意味では政治的な犠牲者)であったのではないかと推測される。
では、その流罪になった先がなぜ下野国都賀郡(ごおり)の川原田かというと、川原田あたりは「皆川荘」内であったということと大いに関連していると思われる。『栃木市史』(通史編中世)によれば、皆川荘は嘉禄(かろく)年中(1225~1227)に二品(にほん)親王家に譲渡され、天福3年(1233)には青蓮院門跡領になったとある。伏見天皇の事変は正応3年(1290))なので、こういった皇室がらみの流罪先には皇室系の遠方の荘園が選ばれることが多かったのではないかと思われる。ただし皆川荘の正確な範囲については不明である。こういったことへの深入りは、それはそれなりに面白く、事件の可能性の追求も必要と思われ、『荘園から読み解く中世という時代』武光誠著(夢新書)や『荘園』伊藤俊一著(中公新書)などの手軽な本に、つい手が延びてしまうのである。
(4)石裂山 加蘇山神社 のこと
さて、話は石裂山にもどる。
83頁の「栃木の街道」のうちの87頁に加蘇山神社の年間参詣者数の統計が出ている。これを見ると、多い時は年間1万4千人を超える人が参詣しているとあるが、当時の道はどのようであったのかと思う。先日通った時は昼間でも薄暗いような谷川沿いの山道であった。舗装はされていたが、まったくの一車線で、軽自動車もすれ違えないような道路となれば、再度の訪問の足は遠のくのではないかと思ったりもする。
先程の、『栃木の街道』で教えられた鹿沼市北赤塚の追分にあるという道標、「右 くがおさく、左 あわのおさく」を見に行きたいと思いたったところ、3月22日の雪が降って来たので驚いた。足下を「わらじ」に頼った時代の寒さはどんなだっただろうと、ふと、考えた。
春の淡雪はまだ降っている。
情報
2022年3月(令和4年)
B5版・94P
非売品・非配布品
自身の資料として作成
◆皆川広照、再起への道~幸嶋若狭大坂物語を読む~ 800円
◆皆川家臣帳(改訂版として2025.9再販) 600円
◆口語 皆川歴代記(改訂版として2025.8再販) 800円
◆口語 別本 皆川正中録(2025.7再販) 1300円
◆復刻版 皆川広照伝 (残部僅少) 700円 ※皆川街づくり協議会発行冊子の取次販売
※郵送の場合、1冊につき送料210円です。
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小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/真名子の八百比丘尼伝説、皆川広照・皆川氏、西方町の歴史・西方氏ほか
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栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。























