このコラムは、小松義邦氏による、2025年11月17日のコラムです。▼

「百間始大縁記(もんまはじまりのだいえんき)」との出会い
「おとうさん、埼玉県の宮代町(みやしろまち)の八百比丘尼伝説って知ってる?」と、長男邦彦(このブログ作成者)が私のもとに、一束の書面を持ってきた。聞けば、インターネットで埼玉県南埼玉郡宮代町の八百比丘尼伝説のページにたどり着いて、「百間始大縁記(もんまはじまりのだいえんき)」という古文書のテキスト化されたPDFを見つけて、プリントアウトしたとのこと。「ホームページであらすじはわかったんだけど、内容を詳しく読んでみたい。でも現代語訳じゃないからよくわからないんだよね」と言う。
栃木市西方町真名子の八百比丘尼伝説(おびくにでんせつ)を研究する一環で、多くの書や論文、史料を見てきたが、埼玉県の宮代町というところに古文書のある八百比丘尼伝説があるとは聞いたことがなく、手持ちの書や論文を見てみたが、やはり記載がなかった。初めて知る八百比丘尼伝説の文書の原文を読めるとは、八百比丘尼さまの「追っかけ」をしている者としては、望外の喜びである。
宮代町の公式ホームページのこのPDFを掲載しているページ(コチラ)の記載によれば、「百間始大縁記は…、石井修次郎編、蓮田文化協会発行の蓮田市文化叢書第54号(昭和49年12月)に収録されているものが現在確認されているもので最も古く、寛政9年(1797)の年号が記されているもの(天保2年に書写)を収録しました。また、参考に西光院所蔵の元治2年(1865)のものと明治6年判(写)を昭和14年に写したものも収録しました」とある。
年代の離れた三つの写本のそれぞれがテキスト化されて掲載されているわけだ。
「村が始まったころの話」のひとつとして、八百比丘尼の話がある。
現代語訳(口語訳)を作ろうと思った理由
さっそく読み始めた。最も古い写本に意味がわからない記述や時系列がおかしい点などがあり、元治二年のものでさらにわからなくなった部分と、逆に当初の意味不明な個所が納得の行くかたちになっている箇所もあり、三つ目ではさらに……という構造になっていて、三つを合わせると理解がしやすく、楽しめる物語であることがわかった。
八百比丘尼伝説のひとつとして個性を持った内容で、現代に引き継がれるべきおもしろさを持っているので、ぜひ後世に残したく、三つの写本の内容を整理し直して、八百比丘尼の話のところの現代語訳を作成した。三つの写本の内容の組み合わせなので、原文に忠実というものではないが、三冊の写本の内容を再構成しての現代語訳で、誰にでも楽しく読んでいただけると思う。
※読みやすくするために、原文にはない小見出しを付けている。
地元宮代町や他の研究者の方による現代語訳もあるかもしれないので、あくまでも小松義邦版として、お許しいただければと思う。原文を尊重されたい方や地元の方にはご迷惑かもしれないが、なにとぞ目をつぶっていただければと切にお願いする。
『百間始大縁記』八百比丘尼伝説の項 現代語訳(小松義邦版)
そもそも、百間の地の始まりを詳しく話しますと次のようになります。
この地が開け始めたころ、どこからともなく移ってきた五人の人たちが、寺村の東神外から西神外の道筋に家を建てて住むようになりました。
庚申講の夜に現れた男
ある時、五人が集まって庚申待ち(六十日に一度廻ってくる申の日の夜に、庚申神を祀ったり、四方山話〈よもやまばなし〉をして一晩を寝ずに明かす信仰)をしようとしているところへ、何処から来たのか四十歳ぐらいの男が立ち寄って、「これは何の集まりですか」と尋ねるので、「これから庚申待ちをすることになっています」と答えました。するとその男は、「何人(なんにん)で行うのですか」と尋ねるので、「五人だよ」と男たちは答えました。
するとその男は、「庚申講は五人でやるものではないので、私を加えて六人でやるようにしませんか」と言います。五人でやるものではないというのが本当かどうかは分からなかったのですが、誰からも異論は出なかったので、「それではどうぞ仲間にお入りください」と答えました。男は大変喜んで「それはありがたいことで…」と礼を述べながら汚れた足を洗って座敷へ上がり、たちまちー同に訓染んで四方山話に加わったり、庚申神にお祈りをするなどで一夜を明かしました。
やがて鶏の声を聞くと。男は灯明を消し、仲間に入れてもらった礼を言いながら暇乞い(いとまごい)をして何処かへ帰って行きました。
その男の家で開かれた庚申講
庚申講は決まった仲間の集まりなので、六十日ごとに行われる庚申講の宿はもちまわりになります。やがて、次がその男の番となりました。ところが、それまでその男が何処に住んでいるのか誰も分かっていなかったので、「ところで、貴方の家はどこですか」と尋ねると、「私は龍宮の者です」と言いました。五人にはよくわからない答えでした。
日暮れになると、その男が講の仲間を呼び集め、「どうぞこちらへ」と先に立って案内するので一同が付いて行きました。下の谷(しものや)から逆井(さかい)の辺りまで来ると、今まで見たこともない大きな屋敷が見えたので、宿主の男に「あれは見たことのないお屋敷ですが、どなたのお屋敷でしょうか」と聞きました
男は、「あれは私の家です」と言います。ー同は、「さてさてまわりの林もご立派で…」と驚きながら付いて行きました。それからさらに二、三丁(一丁は約109m)行きますと、やがて立派な長屋門がある大きなお屋敷にたどり着きました。門をくぐって中に入りますと玄関先には七、八人の老人が羽織袴(はおりはかま)で出迎えに出ていて、講中の一人一人をていねいに客座敷へと案内し、煙草盆や茶菓子を出すなどのもてなしをしてくれました。
一休みをしたあと、亭主が「皆様方には初めておいでいただきましたので、大広問などを見てください」と言って先に立つので付いて行くと、今まで見たこともない広さの座敷がありました。一岡は驚いて、「これはまた何畳敷の部屋ですか?」と聞きますと、「千畳敷ですよ」といいます。「えっ?!」と驚いているうちにまた次の間へ案内され、「これは五百畳敷です」という。それから、茶の間、料理間、台所などを案内され、まず屋敷の広さに一同は驚くばかりでした。
こもに包まれた肉
その後は一同で庚申講に入りましたが、そのうち、五人の中の一人が、たまたま勝手(調理場)を覗くと、何やらこも包み(あらく編んだいぐさで包まれたもの)を運んできたので、密(ひそ)かに見ていると、連ばれて来たのは十二、三の娘のように見えました。
料理人の一人が「まずこれを料理しよう」などと言って別の男と相談を始めたので、それを聞いた男はびっくりして座敷に戻ってきました。そして、見てきた様子を他の四人に密かに話し、「あれは確かに十二、三の娘であった。この料理は絶対に食わない方が良い」などと相談しました。
庚申神への祈祷が終わったあとたくさんの料理が出てきました。五人の男たちもいろいろとご馳走になり、吸い物や野菜の煮付けなどで盃を数杯重ねました。そのあとの二ノ膳にそれらしきものが出ましたが、五人は一切食べずにいました。五人のうちの八兵衛だけはその肉の料理を珍しそうに見て、「これは土産にもらって帰ります」と鼻紙(ちり紙)にくるんで懐に入れました。
酒ばかり呑んでいると寝てしまうので、御膳を片付け、その後は茶飲み話に花を咲かせました。
やがて、鶏も鳴き始めたので灯明を下げ、口々に礼を言って立ち上がり、亭主も尼沼道まで出てきて見送りをしてくれたので、そのあとは五人の者達もわが家への道をたどりました。
次の日の朝の土産物のゆくえ
次の日の朝、目を覚ました八兵衛が妻に「昨夜鼻紙に包んで持って帰った土産物を知らないか」と尋ねましたが、妻は「知らない」と答えます。八兵衛には三歳の娘が居たので、八兵衛はこの子が食べたのであろうと思い、そのことはそれ以上気にしないまま日が過ぎて行きました。
行基、老人と出会う
さて、話はちょっと変わります。この時代のことを言いますと、時は人皇四十六代孝謙天皇の御代の、天平十三年秋の終わりの頃のことでした。時あたかも僧の行基(ぎょうき。のちに、上人〈しょうにん〉、大僧正〈だいそうじょう〉となり.さらには菩薩と崇められた)がこの地に行脚(あんぎゃ)していて、この村の道辻で八十歳ほどの老人と出会いました。
老人は行基に向かい、「貴僧を見かけたので、是非とも頼みたいことがあります。それは、この地の平穏を願うことです。この地は都から遠く離れていて治安も行き届かず、邪見(じゃけん)、放逸な者も多いところですが、村のみんなの頼るべきものがありません。せめて仏の救いがいただけるように阿弥陀如来の像を刻んでいただき、その御堂を建立していただきたいのです。仏堂ができればさらに薬師如来と五社権現も勧請していただければ、私はその堂守りとなってこれを祀り、この身が死んだ後もここの守り神になります。ぜひぜひこの願いを聞いていただきたい」。そう言ううちに、その姿が掻き消すように消えてしまいました。
行基はこの場の有様(ありさま)に奇異の思いを抱きながらも、この老人の願いを聞き届けたいと思い、仏像にするための良い木を選び、一刀三拝(一彫りごとに三拝)しながら如来の尊像を刻み始めました。
行基、娘と出会う
ところが、そこへ八兵衛の娘が毎日のように避ぴに来るようになり、木くずを散らすなどして行基の気も散らすので、ある日、娘に向かい、「これ娘、おまえがここへ来て遊ぶので、木の屑がおまえに当たっては可哀想と思って私の気が散り、如来像の彫りが進まない。明日からはここへ来てはいけない。私の言うことを聞いてくれれば、遠い将来ではあってもおまえを弁財天として祀ってやるので、必ず聞きわけよ」と言い聞かせたので、次の日から娘は来なくなりました。
この行基が阿弥陀如来像を刻んでいる茅屋(ぼうおく)のある辺りは、若狭の国からの通い船が立ち寄る所で、その船に水を供給する場所として、若狭の船の船頭が地元の許しをもらって井戸を掘ってありました。そのため、この井戸を「若狭井戸」と呼んでいましたが、その後の年月を経て「わかさいど」がいつからか「さかいど」となり、やがて「逆井(さかい)」といわれるようになりました。
娘、船で眠り、若狭へ
ある時、ここへ大きな船が着いて何日かの泊まりがありました。そこへ近所の子供たちが何人か寄ってきて、船頭の目を盗んで船に入り込んでしまいました。六歳になっていた八兵衛の娘もその中にいて、ふざけながら船のへさきまで走り込んで、その辺にあったこも(いぐさをあらく編んだもの)をかぶって喜んでいましたが、やがてそのまま眠ってしまいました。船頭はそのことに気がつかずに若狭に向かって船を出し、風をはらんで四十里ばかりを一気に走りました。
やがて眠っていた娘が起き出してきたので船頭はびっくりして「わっ、子どもがいる!」と叫びましたが、順風満帆の船を止めるわけにもいかず、とうとうそのまま若狭国小浜の港へ着いてしまいました。それから、おまえは何処から乗って来たのか、何処の子かといろいろ聞きましたが、子どもも答えられないままに日が過ぎました。
船頭は、子どもを育ててくれる人を探し、港の近くに子のいない夫婦がいて、子どもを育ててくれるということになって、娘はその夫婦の子になりました。
やがてのことに、その両親も亡くなりましたが、なぜか娘は年をとらず、いつまでも若いままの姿を保ち、いつの間にか八百年を経たということです。
この娘の死後、永くこの話が伝えられ、やがてのことに、若狭国小浜ではこの娘を「八百尼」と祀って年々の祭りを行うようになりました。
このような長生きは、その昔、龍宮よりの人魚を食したためであると人々は言い伝えています。
行基が果たした約束
さて行基は阿弥陀如来を刻み終わったあと、かの老人の姿を刻んで五社権現とし、娘の面影を彫って弁財天とする約束を果たしました。行基は村の人たちに言いました。「これからここにお堂を建てるための浄財集めをするためにあちこちを行脚するのだが、その前に、いったいこの村の名は何というのか教えてもらいたい」。それに答えて村人が言うには、「うんにゃ、この村はできたばかりで名前はなんというのか俺たちもまだ知らねぇ」とのこと。
行基はあきれて、「それでは話にならんので、とりあえず村の名を決める必要がある。そのためには、何処から何処までがこの村なのかが分からないと決められないので、東神外の村境から西神外の村境まで竿入れ(間竿〈けんざお〉を繰り返し送って長さを測る)をするがいい」と言いました。人々は「かしこまりました」と、早速お互いが立ち会って竿入れを行ないました。「百間(ひゃっけん)あります」と言うと、行基は、「よし、それではとりあえずこの村を百間村(ももまむら)と呼ぶことにしよう」と言いました。この「百間」は、初めは「ももま」と呼んでいましたが、いつのまにか「もんま」と呼ばれるようになりました。
さて、そこで、行基上人は、阿弥陀如来と五社権現、弁財天などのお祀りをするためのお堂建立の費用を作るために自分の故郷の常陸国へ帰りました。その頃の常陸の領主は安部仲丸殿でしたので、行基は仲丸殿にお堂建立のことをお願いしましたところ、安部仲丸殿は行基の願いを聞き届けて、家臣の鈴木日向守忠勝、島村出羽守直政の両人を百間に遣(つか)わし、天平十五年に阿弥陀堂が完成したことはめでたいことでありました。
※八百比丘尼にまつわる話はここまでです(小松義邦)
解説
楽しんでいただけただろうか。
子どもが船で移動するくだりは、ほかの八百比丘尼伝説で聞いたことがなかった展開だ。また、八百比丘尼の全国行脚に一言も触れていないままで終わっていることも珍しい。八百比丘尼伝説が広められた時の約束事であろう「小浜回帰」がちゃんと入り込んでいることへの感嘆もあった。
「龍宮・人魚・船」の謎
興味深い点がある。
海のない埼玉県であるのに、「龍宮」「人魚」「船」という言葉が物語に組み込まれていることだ。
全国に広がる八百比丘尼伝説においては、伝説発祥の地とされる若狭(福井県)に伝わる「龍宮」「人魚の肉」が、海のない地域では「山中」「不思議な貝」となっていることが多い。海のない地域で、その地の物語として語り継がれるためは、その変更が必要だったのだ。福島県の喜多方の金川寺や栃木市西方町真名子の伝説でも、「山中」であり「九穴の貝」となっている。
なぜ、百間の物語では、「龍宮」「人魚」のままであり、さらに「船」までも登場しているのか。
「龍宮・人魚・船」の答え
長男邦彦が「百間始大縁記」と一緒に渡してくれたものに「百間志料」があった。百間の地に伝わる伝説や史料からさまざまな考察を行っている、明治40年に住職山高龍観師が執筆した書物で、宮代町のホームページにPDFがアップされている(下記参照)。
そこには、「尼沼考」として八百比丘尼についての掲載もある。
その史料に「地勢考」という項目があり、百間の地の成り立ちの言い伝えが描かれていて、そちらを読んで合点が行った。
抜粋して現代語訳にすると、次のようになる。
「百間村は、古代においては、江湾の沿岸にして、埼玉郡の東の涯(はて)だったことは明らかである。古くは武蔵と下総(千葉)の間に入江があり、その入江は武蔵の地先まで入り込んでいた。百間の始め、南は海、北は沼、ここに小高い台地があって、そこを出土ヶ原と呼んだ。入り江が涸れて陸地になるころには、今の古川が利根川の本流として大きく残ったが、そこに中州ができ、さらに潮水が退いて丘となったのは900~1200年のころと思われる」。
この地に伝わる言い伝えでは「百間の始めは南に海があった」のである。
よって、「この地(百間)が開け始めたころ」のこととして語られる八百比丘尼のお話(お堂ができた天平十五年・743年の少し前が想定されている)の中で、停泊できる場所があって若狭と船が行き来していることになっていても、「龍宮」や「人魚」という言葉が出てきていても、その物語を語り、聞く人々にとって、違和感はなかったであろう。
かつ、百間は古(ふる)利根川(昔の利根川の本流)に接している地域なので、今の東京湾から舟がはいっての河川舟運(かせんしゅううん。舟による運送)なども盛んで、山に住む人々と違って、海や船の話を受け入れやすかったのであろうとも思う。
伝説集未収録の不思議
なお、この、百間始大縁記の八百比丘尼伝説は、古文書の写しがあって、文字で残されている貴重な伝説でありながら、埼玉の著名な伝説集である『埼玉の伝説』(韮塚一三郎著・1955・関東図書株式会社)にも『埼玉県伝説集成』(韮塚一三郎編著・1973~1977・北辰図書出版)にも、収録されていない。
どちらも埼玉各所に残る八百比丘尼伝説を収めていて、住民から聞き書きで採取したものも多い。そうした中で、これだけの写本が残っているこの物語がなぜ漏れたのか、不思議である。
宮代町がホームページでしっかりと公開してくださっていることで、目にすることができ、現代語訳まで作れたことは、私にとって幸せなことであった。
補足 「百間の始め、南は海」について
ところで、下図を見ていただきたい。関東平野の昔の海岸線が描かれた地図である。
〈『日本の地形4 関東・伊豆小笠原』(貝塚爽平他編、2000、東京大学出版会)P21より〉
左側上部に小松が赤い点を入れさせていただいた。そこがおおよその百間の位置である。

言い伝えの「百間の南に海があった」という時期が、実際にあったであろうことがわかる。
ただ、この海岸線図は、「縄文時代前期・約7000年前の海岸線」である。
1926年(大正15年)に、東京帝国大学教授の東木龍七(とうき りゅうしち)氏が、貝塚の分布から関東平野の台地がかつて海に覆われていたと考え、地形的考察を加えて特定した「縄文時代前期・約7000年前の海岸線」の図に基づいて、上記書籍の編者が関東平野の地図にしたものとのこと。
つまり「縄文時代に今の百間のあたりは海だった」ということは言えるが、百間という村の始まりの頃に南は海であった、ということではない。その間には数千年の時間がある。
不思議なようであるが、実は、百間に限らず、「武蔵(現在の東京、埼玉、神奈川にまたがる広い地域)は昔海だった」という言い伝えは、古くは奈良時代・和銅6年(713年)頃に編纂されたとされる『武蔵野国風土記』(現存なし。後代の書物で引用として伝わる)にもあり、それ以外にも、多く残されている。地形的な推測、貝塚の出土からの推測などからのものであったと言われている。
(上記の海岸線図については、araki minoru氏のブログ『花見川流域を歩く』のコチラのページで、上記詳細を知ることができた。araki minoru様、感謝します)
補足2 百間が登場する、他の八百比丘尼伝説
『埼玉県伝説集成』(韮塚一三郎編著・北辰図書出版・中巻/歴史編は1973刊行)には、埼玉全域の八百比丘尼伝説が複数収録されていて、その1つに、百間の天沼に伝わる八百比丘尼物語がある。若狭国から一人の比丘尼が来て、魚を食物とし、一年中着物を着ておらず、顔美しく、髪は真っ黒で、八百年生きたから八百比丘尼といい、天沼に祀られている、というものだ。
また、『岩槻市史 民俗資料編』(1984)に「黒谷」地域に伝わる八百比丘尼の話の掲載があり、黒谷の娘が若狭に嫁ぎ人魚を食べて八百年を生きて、後年黒谷に帰ってきて、百間村で没した、と書かれている。
→→ 詳細はコチラ (上記2点の詳細および、他の伝説集について記載)
原文史料について
上記現代語訳(小松義邦版)の原文史料PDFは下記ホームページに掲載されています。
▼埼玉県宮代町 公式ホームページ 郷土史料「百間始大縁記」のページhttps://www.town.miyashiro.lg.jp/0000002883.html
▼同「百間志料」のページ
https://www.town.miyashiro.lg.jp/0000002882.html
▼「百間始大縁記」の明治6年2月に書写したものを昭和14年に再度書写したものページ
https://adeac.jp/miyashiro-lib/viewer/mp200032-200010/mi32/
栃木市西方町真名子の八百比丘尼伝説の刊行情報
こちらは、栃木県栃木市の真名子の八百比丘尼伝説についての本です。
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「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」
2024年9月(令和6年)
A5版・200P
著者/小松義邦
発行/小松義邦
……詳細はコチラをご覧ください。
小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/皆川広照・皆川氏、真名子の八百比丘尼伝説、西方町の歴史・西方氏ほか
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栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。
























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