小松義邦

八百比丘尼伝説っておもしろい!!「真名子の里『伝説八百比丘尼』を追う」小松義邦氏・著

八百比丘尼伝説とは?

八百比丘尼(はっぴゃくびくに/やおびくに)は、八百年生きたとされる女性の話です。
福井県若狭が発祥の地とされていて、不思議なことに、全国にその伝説が広がっています。

栃木県真名子の八百比丘尼伝説

栃木県栃木市西方町真名子(にしかたまち まなご)にも、八百比丘尼伝説があります。真名子では、「八百比丘尼」と書きながら、「おびくに」と読み、「おびくにさま」と呼んでいます。「八百」を「お」と読むわけではなく、「比丘尼」に敬称の「お」を付けた呼び方です。

小松義邦氏と『真名子の里 伝説八百比丘尼を追う』

栃木市在住の郷土史家の小松義邦氏が、「真名子の里『伝説八百比丘尼』を追う」というタイトルの私家版書籍を、2024年9月(令和6年)に発行しました。

伝説八百比丘尼を追う、の表紙

1998年の『伝説 八百比丘尼』刊行と研究の始まり

小松義邦氏は、1998年(平成10年)に真名子で開催された「第2回八百比丘尼サミット」のために、当時の「西方町」にて作成・刊行された書籍「伝説 八百比丘尼」作成の中心メンバーの一人でした。この書籍は、その当時に地元の旧家より発見された一次資料「五代尊 八百比丘尼畧縁起」という古文書を中心に、真名子の八百比丘尼伝説を読みやすく解説したものです。その後の八百比丘尼研究の論文などにも引用される価値ある内容となっていました。

新刊『真名子の里 伝説八百比丘尼を追う』の内容

その刊行から26年を経て、2024年9月(令和6年)に発行されたのが、「真名子の里『伝説  八百比丘尼』を追う」です。1998年の冊子『伝説 八百比丘尼』のその後を追い続けてきた内容となっています。

読み物として面白いだけでなく、八百比丘尼伝説の研究の書として、とても意味あるものとなっています。また、真名子の人々にとっては、地元のみならず近隣の人々が「おびくにさま」を大切にして救いを求めて拝んでいた、その理由を知ることができる、大切な一冊です。

伝説八百比丘尼を追うの本文の画像

章ごとの内容

本書は下記の内容となっています。

第1章の概要:八百比丘尼研究の誕生

1998年(H10年)に西方町で開催された「第三回八百比丘尼サミット」をきっかけに、西方町で八百比丘尼伝説の研究がはじまった様子が書かれています。小松義邦氏はまさに当事者なので、その際のさまざまな葛藤や興奮がリアルに伝わる記述となっています。

伝説八百比丘尼を追う、の、本文の一部の画像。前作の表示のあるページ

第2章の概要:伴信友と八百比丘尼伝説

若狭国誌という書物に伴信友という文筆家が書き入れをしたものがあり、少部数で出版されてもいるのですが、そこに、真名子の八百比丘尼は「十七人の夫を持った」と書かれていて、何人もの研究者がそれもひとつの伝説として記してきました。地元の伝説とは異なる話であることに疑問を持った小松義邦氏は、実際の古書を入手して丹念にその記述を調べ上げ、これまで誰もたどり着かなかった驚くべき新事実に、たどり着いています。

伴信友書入に決着をつけたあと、この章の後半では、真名子の八百比丘尼伝説がどういうものであるかが書かれます。古文書「五代尊八百比丘尼畧縁起」「真名古旧傳夢物語」と「勧進帳」の紹介と、伝説がこれまでどう取り上げられてきたかなどの記述となっています。

第3章の概要:会津金川寺の八百比丘尼堂

小松義邦氏が2023年(R5年)に御開帳に訪れた風景から始まって、会津金川寺の八百比丘尼伝説について、紹介し、真名子の伝説との類似点と相違点を探求します。

第4章の概要:八百比丘尼伝説と縁起販売説

第4章は「八百比丘尼の出現と『寺社縁起』の販売」。富樫晃氏が発表している、八百比丘尼伝説の全国伝播は若狭の縁起販売事業の結果と考えられるという、「画期的かつ斬新な切り口」について書いています。もしも本当にそうであるならば、全国伝播の合点がゆく、という視点での記述となっています。

第5章の概要:八百比丘尼と関連するキーワード解説

「キーワード解説として、録事法眼(録事尊)/庚申信仰/五大尊/五代尊/四道将軍についての解説となっています。

第6章の概要:地福寺と八百比丘尼像

真名子の八百比丘尼伝説発祥のお寺である地福寺の歴史をひもとき、略縁起と縁起販売説との関係を探ります。後半の「比丘尼像」の箇所では、真名子に祀られている比丘尼像について、伝説にあるように、本当に若狭の八百比丘尼像とペアのものとして作られたのか、真相に迫ります。

第7章の概要:真名子の里の八百比丘尼様

終章である第7章で、昔、近隣からも多くの女性が救いを求めて拝みにきた真名子のおびくにさまについて、なぜそれほどに崇められていたのかを、小松義邦氏ならではの視座で、語っています。

読んでいて、さまざまな個所でワクワクさせられ、エモーショナルな感情になり、終章では、歴史の中のあの頃の真名子に、優しい気持ちで立っていました。
ぜひ読んでいただきたい一冊です。

――――――

第二部:貴重な史料と写真資料

下記の価値ある内容が掲載されています。
●五代尊八百比丘尼畧縁起・勧進帳 口語訳
●五代尊八百比丘尼畧縁起・勧進帳 読み下し文
●真名子旧伝夢物語 読み下し文
●洞雲寺 八百比丘尼尊御縁起和讃 & 略和讃
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西方町の写真家・古澤悦夫氏(元西方町長)撮影のカラー写真も、多数掲載されています。八百比丘尼堂の天井画をきれいなカラー写真で見ることができます。

八百比丘尼堂の天井画の写真
伝説八百比丘尼を追う、の冊子の新聞記事きりぬき

刊行情報

2024年9月(令和6年)
A5版・200P
著者/小松義邦
発行/小松義邦

こちらの冊子は、栃木市の各図書館でご覧いただくことができます。
また、在庫があるので(僅少)、お買い求めいただけます。800円+送料210円 です。

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小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/皆川広照・皆川氏、真名子の八百比丘尼伝説、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

小松義邦コラム/八百比丘尼と彫られた山あいの石塔のこと

このコラムは、小松義邦氏による、2025年11月3日のコラムです。▼

「八百比丘尼」と彫られた石塔

2024年9月に発行した「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」にて、『粟野町誌・民俗編』からの引用として、一文と写真を下記のように掲載した。一文は『……粕尾の森地区には「八百比丘尼」の石仏が祀られているし、…(地名)…には「八百比丘尼」の文字を刻んだ石塔が立てられ、女の人たちによって信仰されてきた』というもので、写真は、八百比丘尼と彫られた石塔の写真である。この写真は、粟野町教育委員会が、1983年(昭和58年)に粟野町誌六巻の中の一巻として発行した「粟野の野佛」掲載の写真である。

探して訪ね歩いた旅

そこには記さなかったが、私は2年前の2023年、この「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」をまとめるにあたり、この石塔を、自分の目で確認したいと思って、半日をかけてその地域を訪ね歩いたことがある。地元地域の方の何人かにお聞きしたが発見できず、年月が経って風化して崩れたか埋もれてしまったのだろうと、残念ながら諦めざるを得なかった。長男邦彦(このブログ作成者)とその話になり、「この写真の石塔が見つからないのは残念だね、僕も見たかった」と邦彦が言っていたのを覚えている。

小山市在住の中村氏からのご連絡

2025年10月に、小山市在住の中村宏氏からご連絡があった。中村氏は、以前「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」を読まれて、知人に配りたいと我が家まで何冊かをご購入に来られ、お話したことがあった。

ご連絡内容はというと、この石塔を探しに行き、発見しました、との驚きのお話だった。その際にとった拓本(和紙を当てて墨つけをしたもの ※石塔には墨はつけない方法)二枚をご提供くださるとのことで、お会いして、素晴らしい拓本をいただいた。一枚は真名子の八百比丘尼堂の堂守の荻原氏がお堂の中に、一枚は文化財保護委員の中村良一氏が「真名子夢ホール」(公民館)に飾ってくださることとなった。

発見時の詳細をお伺いしたところ、探し歩いて地元の人に尋ね、「こちらのことではないか」と案内してもらったそうで、探し当てた石塔は、下部の「丘尼」の文字のあたりは埋まっていた状態だったので掘り出して、上部は三分の一あたりで割れ落ちていたので岩石用の接着剤で応急修理をしてくださったとのこと。まことにありがたく、心よりお礼を申し上げ、その応急修理をおこなった旨を文化財保護委員の中村良一氏にもお伝えした。

小さな冒険の旅へ

さて、そうなると、直接この目で見たい、との思いになる。一度訪れて、見つからずに諦めた経緯があるから尚更である。中村宏氏からおおよその場所を伺い、晴れた某日、小さな冒険の旅にでかけた。

教わったように、川の源流沿いに連なる町筋から山間部へと20キロほどの道を車でさかのぼると、急に細々とした一本道になった。川沿いの路肩に気を配りながらもさらに5キロほど入っていく。だがなかなか見つからない。通り過ぎてしまったのだろうかと方向転換をして戻ったところ、発見した。

中村氏から、行きには見つからずに戻ってくるときに見つけられると思いますよ、と言われていたのを思い出した。道が湾曲している箇所にあり、川側に落ちないように意識が行ってしまうとちょうど目にはいらない箇所にあるのである。

身震いが出るほどの感動を覚えた。山側の高さ約1m程の傾斜地に六体の石像が並んでいた。向かって左から「十九夜」「二十六夜」「庚申塔」「八百比丘尼」、六本の腕を持つ「青面金剛像」、「南無」の文字のある石塔、となっている。それらが薄い青ゴケにくるまっている姿は圧巻であった。

山あいに石塔を作った意味

「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」に記載したとおり、真名子の隣の粟野町の『粟野町誌・民俗編』には、八百比丘尼信仰が盛んであったとの記述がある。当時、「健康と長寿を授け、はしかや疱癒にかかった子どもたちの命も救ってあげますよ」と手を差しのべる八百比丘尼さまは、女性、特に、母親にとって救いとなる信仰の対象であったことを、同書にて書かせていただいた。

山あいの民にとって徒歩という移動手段しかない当時、この地域から真名子の里の八百比丘尼堂までのおおよそ六里(26km)を超える山道は、頻繁に通えるものではない。子どもを育てる母であればなおさらである。

そこで、祈りの対象として、そして、ご利益を我が村にも是非との願いで、男どもに働きかけて、立派な姿の石に「八百比丘尼」と刻ませ、ゆかりの深い庚申様と並べて立てさせたのであろう。その石塔を目の前にして、当時のこの地域の人々の、ひたすらな信仰心、切実な思いに、あらためて感動した。

秋晴れの日に再訪

その話を長男邦彦にしたところ、ぜひ僕も見たい、となり、秋晴れの11月1日、長男邦彦の運転で、妻を含めた三人で、この石塔群を訪れた。澄みわたった山間の空気の中、二百年前に祈りを込めて彫られた石塔たちに、共に訪ねた妻や長男に限りなく幸多かれとの願いをこめて深い一礼を捧げたひとときであった。

結びに

割れて埋もれた石塔にふたたび息吹を与えてくださった中村宏氏に大いに感謝します。
そして、山深い渓谷にこれだけの足跡を残した八百比丘尼と、深い信仰の証を石に刻んで残した二百年前の粟野のこの地域の方々に、心からの敬意を表したい。

刊行情報

「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」 
2024年9月(令和6年)
A5版・200P
著者/小松義邦
発行/小松義邦
……詳細はコチラをご覧ください。

※なお、当コラムでは、石塔の場所は明示しない形としました。不特定多数の方の目にふれる可能性があり、いたずらや破損・盗難などを避けるためです。ご了承ください。

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小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/皆川広照・皆川氏、真名子の八百比丘尼伝説、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

小松義邦コラム/埼玉県宮代町の八百比丘尼伝説の現代語訳 を作ってみました

このコラムは、小松義邦氏による、2025年11月17日のコラムです。▼

「百間始大縁記(もんまはじまりのだいえんき)」との出会い

「おとうさん、埼玉県の宮代町(みやしろまち)の八百比丘尼伝説って知ってる?」と、長男邦彦(このブログ作成者)が私のもとに、一束の書面を持ってきた。聞けば、インターネットで埼玉県南埼玉郡宮代町の八百比丘尼伝説のページにたどり着いて、「百間始大縁記(もんまはじまりのだいえんき)」という古文書のテキスト化されたPDFを見つけて、プリントアウトしたとのこと。「ホームページであらすじはわかったんだけど、内容を詳しく読んでみたい。でも現代語訳じゃないからよくわからないんだよね」と言う。

栃木市西方町真名子の八百比丘尼伝説(おびくにでんせつ)を研究する一環で、多くの書や論文、史料を見てきたが、埼玉県の宮代町というところに古文書のある八百比丘尼伝説があるとは聞いたことがなく、手持ちの書や論文を見てみたが、やはり記載がなかった。初めて知る八百比丘尼伝説の文書の原文を読めるとは、八百比丘尼さまの「追っかけ」をしている者としては、望外の喜びである。

宮代町の公式ホームページのこのPDFを掲載しているページ(コチラ)の記載によれば、「百間始大縁記は…、石井修次郎編、蓮田文化協会発行の蓮田市文化叢書第54号(昭和49年12月)に収録されているものが現在確認されているもので最も古く、寛政9年(1797)の年号が記されているもの(天保2年に書写)を収録しました。また、参考に西光院所蔵の元治2年(1865)のものと明治6年判(写)を昭和14年に写したものも収録しました」とある。

年代の離れた三つの写本のそれぞれがテキスト化されて掲載されているわけだ。
「村が始まったころの話」のひとつとして、八百比丘尼の話がある。

現代語訳(口語訳)を作ろうと思った理由

さっそく読み始めた。最も古い写本に意味がわからない記述や時系列がおかしい点などがあり、元治二年のものでさらにわからなくなった部分と、逆に当初の意味不明な個所が納得の行くかたちになっている箇所もあり、三つ目ではさらに……という構造になっていて、三つを合わせると理解がしやすく、楽しめる物語であることがわかった。

八百比丘尼伝説のひとつとして個性を持った内容で、現代に引き継がれるべきおもしろさを持っているので、ぜひ後世に残したく、三つの写本の内容を整理し直して、八百比丘尼の話のところの現代語訳を作成した。三つの写本の内容の組み合わせなので、原文に忠実というものではないが、三冊の写本の内容を再構成しての現代語訳で、誰にでも楽しく読んでいただけると思う。
※読みやすくするために、原文にはない小見出しを付けている。

地元宮代町や他の研究者の方による現代語訳もあるかもしれないので、あくまでも小松義邦版として、お許しいただければと思う。原文を尊重されたい方や地元の方にはご迷惑かもしれないが、なにとぞ目をつぶっていただければと切にお願いする。

『百間始大縁記』八百比丘尼伝説の項 現代語訳(小松義邦版)

そもそも、百間の地の始まりを詳しく話しますと次のようになります。

この地が開け始めたころ、どこからともなく移ってきた五人の人たちが、寺村の東神外から西神外の道筋に家を建てて住むようになりました。

庚申講の夜に現れた男

ある時、五人が集まって庚申待ち(六十日に一度廻ってくる申の日の夜に、庚申神を祀ったり、四方山話〈よもやまばなし〉をして一晩を寝ずに明かす信仰)をしようとしているところへ、何処から来たのか四十歳ぐらいの男が立ち寄って、「これは何の集まりですか」と尋ねるので、「これから庚申待ちをすることになっています」と答えました。するとその男は、「何人(なんにん)で行うのですか」と尋ねるので、「五人だよ」と男たちは答えました。

するとその男は、「庚申講は五人でやるものではないので、私を加えて六人でやるようにしませんか」と言います。五人でやるものではないというのが本当かどうかは分からなかったのですが、誰からも異論は出なかったので、「それではどうぞ仲間にお入りください」と答えました。男は大変喜んで「それはありがたいことで…」と礼を述べながら汚れた足を洗って座敷へ上がり、たちまちー同に訓染んで四方山話に加わったり、庚申神にお祈りをするなどで一夜を明かしました。

やがて鶏の声を聞くと。男は灯明を消し、仲間に入れてもらった礼を言いながら暇乞い(いとまごい)をして何処かへ帰って行きました。

その男の家で開かれた庚申講

庚申講は決まった仲間の集まりなので、六十日ごとに行われる庚申講の宿はもちまわりになります。やがて、次がその男の番となりました。ところが、それまでその男が何処に住んでいるのか誰も分かっていなかったので、「ところで、貴方の家はどこですか」と尋ねると、「私は龍宮の者です」と言いました。五人にはよくわからない答えでした。

日暮れになると、その男が講の仲間を呼び集め、「どうぞこちらへ」と先に立って案内するので一同が付いて行きました。下の谷(しものや)から逆井(さかい)の辺りまで来ると、今まで見たこともない大きな屋敷が見えたので、宿主の男に「あれは見たことのないお屋敷ですが、どなたのお屋敷でしょうか」と聞きました

男は、「あれは私の家です」と言います。ー同は、「さてさてまわりの林もご立派で…」と驚きながら付いて行きました。それからさらに二、三丁(一丁は約109m)行きますと、やがて立派な長屋門がある大きなお屋敷にたどり着きました。門をくぐって中に入りますと玄関先には七、八人の老人が羽織袴(はおりはかま)で出迎えに出ていて、講中の一人一人をていねいに客座敷へと案内し、煙草盆や茶菓子を出すなどのもてなしをしてくれました。

一休みをしたあと、亭主が「皆様方には初めておいでいただきましたので、大広問などを見てください」と言って先に立つので付いて行くと、今まで見たこともない広さの座敷がありました。一岡は驚いて、「これはまた何畳敷の部屋ですか?」と聞きますと、「千畳敷ですよ」といいます。「えっ?!」と驚いているうちにまた次の間へ案内され、「これは五百畳敷です」という。それから、茶の間、料理間、台所などを案内され、まず屋敷の広さに一同は驚くばかりでした。

こもに包まれた肉

その後は一同で庚申講に入りましたが、そのうち、五人の中の一人が、たまたま勝手(調理場)を覗くと、何やらこも包み(あらく編んだいぐさで包まれたもの)を運んできたので、密(ひそ)かに見ていると、連ばれて来たのは十二、三の娘のように見えました。

料理人の一人が「まずこれを料理しよう」などと言って別の男と相談を始めたので、それを聞いた男はびっくりして座敷に戻ってきました。そして、見てきた様子を他の四人に密かに話し、「あれは確かに十二、三の娘であった。この料理は絶対に食わない方が良い」などと相談しました。

庚申神への祈祷が終わったあとたくさんの料理が出てきました。五人の男たちもいろいろとご馳走になり、吸い物や野菜の煮付けなどで盃を数杯重ねました。そのあとの二ノ膳にそれらしきものが出ましたが、五人は一切食べずにいました。五人のうちの八兵衛だけはその肉の料理を珍しそうに見て、「これは土産にもらって帰ります」と鼻紙(ちり紙)にくるんで懐に入れました。

酒ばかり呑んでいると寝てしまうので、御膳を片付け、その後は茶飲み話に花を咲かせました。
やがて、鶏も鳴き始めたので灯明を下げ、口々に礼を言って立ち上がり、亭主も尼沼道まで出てきて見送りをしてくれたので、そのあとは五人の者達もわが家への道をたどりました。

次の日の朝の土産物のゆくえ

次の日の朝、目を覚ました八兵衛が妻に「昨夜鼻紙に包んで持って帰った土産物を知らないか」と尋ねましたが、妻は「知らない」と答えます。八兵衛には三歳の娘が居たので、八兵衛はこの子が食べたのであろうと思い、そのことはそれ以上気にしないまま日が過ぎて行きました。

行基、老人と出会う

さて、話はちょっと変わります。この時代のことを言いますと、時は人皇四十六代孝謙天皇の御代の、天平十三年秋の終わりの頃のことでした。時あたかも僧の行基(ぎょうき。のちに、上人〈しょうにん〉、大僧正〈だいそうじょう〉となり.さらには菩薩と崇められた)がこの地に行脚(あんぎゃ)していて、この村の道辻で八十歳ほどの老人と出会いました。

老人は行基に向かい、「貴僧を見かけたので、是非とも頼みたいことがあります。それは、この地の平穏を願うことです。この地は都から遠く離れていて治安も行き届かず、邪見(じゃけん)、放逸な者も多いところですが、村のみんなの頼るべきものがありません。せめて仏の救いがいただけるように阿弥陀如来の像を刻んでいただき、その御堂を建立していただきたいのです。仏堂ができればさらに薬師如来と五社権現も勧請していただければ、私はその堂守りとなってこれを祀り、この身が死んだ後もここの守り神になります。ぜひぜひこの願いを聞いていただきたい」。そう言ううちに、その姿が掻き消すように消えてしまいました。

行基はこの場の有様(ありさま)に奇異の思いを抱きながらも、この老人の願いを聞き届けたいと思い、仏像にするための良い木を選び、一刀三拝(一彫りごとに三拝)しながら如来の尊像を刻み始めました。

行基、娘と出会う

ところが、そこへ八兵衛の娘が毎日のように避ぴに来るようになり、木くずを散らすなどして行基の気も散らすので、ある日、娘に向かい、「これ娘、おまえがここへ来て遊ぶので、木の屑がおまえに当たっては可哀想と思って私の気が散り、如来像の彫りが進まない。明日からはここへ来てはいけない。私の言うことを聞いてくれれば、遠い将来ではあってもおまえを弁財天として祀ってやるので、必ず聞きわけよ」と言い聞かせたので、次の日から娘は来なくなりました。

この行基が阿弥陀如来像を刻んでいる茅屋(ぼうおく)のある辺りは、若狭の国からの通い船が立ち寄る所で、その船に水を供給する場所として、若狭の船の船頭が地元の許しをもらって井戸を掘ってありました。そのため、この井戸を「若狭井戸」と呼んでいましたが、その後の年月を経て「わかさいど」がいつからか「さかいど」となり、やがて「逆井(さかい)」といわれるようになりました。

娘、船で眠り、若狭へ

ある時、ここへ大きな船が着いて何日かの泊まりがありました。そこへ近所の子供たちが何人か寄ってきて、船頭の目を盗んで船に入り込んでしまいました。六歳になっていた八兵衛の娘もその中にいて、ふざけながら船のへさきまで走り込んで、その辺にあったこも(いぐさをあらく編んだもの)をかぶって喜んでいましたが、やがてそのまま眠ってしまいました。船頭はそのことに気がつかずに若狭に向かって船を出し、風をはらんで四十里ばかりを一気に走りました。

やがて眠っていた娘が起き出してきたので船頭はびっくりして「わっ、子どもがいる!」と叫びましたが、順風満帆の船を止めるわけにもいかず、とうとうそのまま若狭国小浜の港へ着いてしまいました。それから、おまえは何処から乗って来たのか、何処の子かといろいろ聞きましたが、子どもも答えられないままに日が過ぎました。

船頭は、子どもを育ててくれる人を探し、港の近くに子のいない夫婦がいて、子どもを育ててくれるということになって、娘はその夫婦の子になりました。

やがてのことに、その両親も亡くなりましたが、なぜか娘は年をとらず、いつまでも若いままの姿を保ち、いつの間にか八百年を経たということです。

この娘の死後、永くこの話が伝えられ、やがてのことに、若狭国小浜ではこの娘を「八百尼」と祀って年々の祭りを行うようになりました。
このような長生きは、その昔、龍宮よりの人魚を食したためであると人々は言い伝えています。

行基が果たした約束

さて行基は阿弥陀如来を刻み終わったあと、かの老人の姿を刻んで五社権現とし、娘の面影を彫って弁財天とする約束を果たしました。行基は村の人たちに言いました。「これからここにお堂を建てるための浄財集めをするためにあちこちを行脚するのだが、その前に、いったいこの村の名は何というのか教えてもらいたい」。それに答えて村人が言うには、「うんにゃ、この村はできたばかりで名前はなんというのか俺たちもまだ知らねぇ」とのこと。

行基はあきれて、「それでは話にならんので、とりあえず村の名を決める必要がある。そのためには、何処から何処までがこの村なのかが分からないと決められないので、東神外の村境から西神外の村境まで竿入れ(間竿〈けんざお〉を繰り返し送って長さを測る)をするがいい」と言いました。人々は「かしこまりました」と、早速お互いが立ち会って竿入れを行ないました。「百間(ひゃっけん)あります」と言うと、行基は、「よし、それではとりあえずこの村を百間村(ももまむら)と呼ぶことにしよう」と言いました。この「百間」は、初めは「ももま」と呼んでいましたが、いつのまにか「もんま」と呼ばれるようになりました。

さて、そこで、行基上人は、阿弥陀如来と五社権現、弁財天などのお祀りをするためのお堂建立の費用を作るために自分の故郷の常陸国へ帰りました。その頃の常陸の領主は安部仲丸殿でしたので、行基は仲丸殿にお堂建立のことをお願いしましたところ、安部仲丸殿は行基の願いを聞き届けて、家臣の鈴木日向守忠勝、島村出羽守直政の両人を百間に遣(つか)わし、天平十五年に阿弥陀堂が完成したことはめでたいことでありました。

※八百比丘尼にまつわる話はここまでです(小松義邦)

解説

楽しんでいただけただろうか。
子どもが船で移動するくだりは、ほかの八百比丘尼伝説で聞いたことがなかった展開だ。また、八百比丘尼の全国行脚に一言も触れていないままで終わっていることも珍しい。八百比丘尼伝説が広められた時の約束事であろう「小浜回帰」がちゃんと入り込んでいることへの感嘆もあった。

「龍宮・人魚・船」の謎

興味深い点がある。
海のない埼玉県であるのに、「龍宮」「人魚」「船」という言葉が物語に組み込まれていることだ。

全国に広がる八百比丘尼伝説においては、伝説発祥の地とされる若狭(福井県)に伝わる「龍宮」「人魚の肉」が、海のない地域では「山中」「不思議な貝」となっていることが多い。海のない地域で、その地の物語として語り継がれるためは、その変更が必要だったのだ。福島県の喜多方の金川寺や栃木市西方町真名子の伝説でも、「山中」であり「九穴の貝」となっている。

なぜ、百間の物語では、「龍宮」「人魚」のままであり、さらに「船」までも登場しているのか。

「龍宮・人魚・船」の答え

長男邦彦が「百間始大縁記」と一緒に渡してくれたものに「百間志料」があった。百間の地に伝わる伝説や史料からさまざまな考察を行っている、明治40年に住職山高龍観師が執筆した書物で、宮代町のホームページにPDFがアップされている(下記参照)。
そこには、「尼沼考」として八百比丘尼についての掲載もある。
その史料に「地勢考」という項目があり、百間の地の成り立ちの言い伝えが描かれていて、そちらを読んで合点が行った。

抜粋して現代語訳にすると、次のようになる。
「百間村は、古代においては、江湾の沿岸にして、埼玉郡の東の涯(はて)だったことは明らかである。古くは武蔵と下総(千葉)の間に入江があり、その入江は武蔵の地先まで入り込んでいた。百間の始め、南は海、北は沼、ここに小高い台地があって、そこを出土ヶ原と呼んだ。入り江が涸れて陸地になるころには、今の古川が利根川の本流として大きく残ったが、そこに中州ができ、さらに潮水が退いて丘となったのは900~1200年のころと思われる」。

この地に伝わる言い伝えでは「百間の始めは南に海があった」のである。

よって、「この地(百間)が開け始めたころ」のこととして語られる八百比丘尼のお話(お堂ができた天平十五年・743年の少し前が想定されている)の中で、停泊できる場所があって若狭と船が行き来していることになっていても、「龍宮」や「人魚」という言葉が出てきていても、その物語を語り、聞く人々にとって、違和感はなかったであろう。

かつ、百間は古(ふる)利根川(昔の利根川の本流)に接している地域なので、今の東京湾から舟がはいっての河川舟運(かせんしゅううん。舟による運送)なども盛んで、山に住む人々と違って、海や船の話を受け入れやすかったのであろうとも思う。

伝説集未収録の不思議

なお、この、百間始大縁記の八百比丘尼伝説は、古文書の写しがあって、文字で残されている貴重な伝説でありながら、埼玉の著名な伝説集である『埼玉の伝説』(韮塚一三郎著・1955・関東図書株式会社)にも『埼玉県伝説集成』(韮塚一三郎編著・1973~1977・北辰図書出版)にも、収録されていない。

どちらも埼玉各所に残る八百比丘尼伝説を収めていて、住民から聞き書きで採取したものも多い。そうした中で、これだけの写本が残っているこの物語がなぜ漏れたのか、不思議である。

宮代町がホームページでしっかりと公開してくださっていることで、目にすることができ、現代語訳まで作れたことは、私にとって幸せなことであった。

補足 「百間の始め、南は海」について

ところで、下図を見ていただきたい。関東平野の昔の海岸線が描かれた地図である。
〈『日本の地形4 関東・伊豆小笠原』(貝塚爽平他編、2000、東京大学出版会)P21より〉
左側上部に小松が赤い点を入れさせていただいた。そこがおおよその百間の位置である。

言い伝えの「百間の南に海があった」という時期が、実際にあったであろうことがわかる。

ただ、この海岸線図は、「縄文時代前期・約7000年前の海岸線」である。
1926年(大正15年)に、東京帝国大学教授の東木龍七(とうき りゅうしち)氏が、貝塚の分布から関東平野の台地がかつて海に覆われていたと考え、地形的考察を加えて特定した「縄文時代前期・約7000年前の海岸線」の図に基づいて、上記書籍の編者が関東平野の地図にしたものとのこと。

つまり「縄文時代に今の百間のあたりは海だった」ということは言えるが、百間という村の始まりの頃に南は海であった、ということではない。その間には数千年の時間がある。

不思議なようであるが、実は、百間に限らず、「武蔵(現在の東京、埼玉、神奈川にまたがる広い地域)は昔海だった」という言い伝えは、古くは奈良時代・和銅6年(713年)頃に編纂されたとされる『武蔵野国風土記』(現存なし。後代の書物で引用として伝わる)にもあり、それ以外にも、多く残されている。地形的な推測、貝塚の出土からの推測などからのものであったと言われている。

(上記の海岸線図については、araki minoru氏のブログ『花見川流域を歩く』のコチラのページで、上記詳細を知ることができた。araki minoru様、感謝します)

補足2 百間が登場する、他の八百比丘尼伝説

『埼玉県伝説集成』(韮塚一三郎編著・北辰図書出版・中巻/歴史編は1973刊行)には、埼玉全域の八百比丘尼伝説が複数収録されていて、その1つに、百間の天沼に伝わる八百比丘尼物語がある。若狭国から一人の比丘尼が来て、魚を食物とし、一年中着物を着ておらず、顔美しく、髪は真っ黒で、八百年生きたから八百比丘尼といい、天沼に祀られている、というものだ。

また、『岩槻市史 民俗資料編』(1984)に「黒谷」地域に伝わる八百比丘尼の話の掲載があり、黒谷の娘が若狭に嫁ぎ人魚を食べて八百年を生きて、後年黒谷に帰ってきて、百間村で没した、と書かれている。

→→ 詳細はコチラ (上記2点の詳細および、他の伝説集について記載)

原文史料について

上記現代語訳(小松義邦版)の原文史料PDFは下記ホームページに掲載されています。
▼埼玉県宮代町 公式ホームページ 郷土史料「百間始大縁記」のページhttps://www.town.miyashiro.lg.jp/0000002883.html
▼同「百間志料」のページ
https://www.town.miyashiro.lg.jp/0000002882.html 
▼「百間始大縁記」の明治6年2月に書写したものを昭和14年に再度書写したものページ
https://adeac.jp/miyashiro-lib/viewer/mp200032-200010/mi32/

栃木市西方町真名子の八百比丘尼伝説の刊行情報

こちらは、栃木県栃木市の真名子の八百比丘尼伝説についての本です。

「真名子の里『伝説 八百比丘尼』を追う」 
2024年9月(令和6年)
A5版・200P
著者/小松義邦
発行/小松義邦
……詳細はコチラをご覧ください。

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小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/皆川広照・皆川氏、真名子の八百比丘尼伝説、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

八百比丘尼伝説— 栃木・真名子の「おびくにさま」伝承<コラム>

『「伝説 八百比丘尼」を追う』表紙

日本全国に伝わる八百比丘尼

「八百比丘尼(やおびくに・はっぴゃくびくに)」は、日本各地に広く伝承される不思議な伝説です。物語の多くは「人魚の肉を食べたことで不老長寿となった女性」が主人公となり、やがて出家して比丘尼(尼僧)となった、と語られています。
八百年もの長きにわたって各地を巡り歩き、人々に仏法を説き、植樹や教えを広めたとされます。「長寿」「神秘」「説法」などの語句とともに語られます。

各地に残る八百比丘尼の足跡

八百比丘尼は全国のさまざまな土地に伝承を残しています。

  • 福井県小浜市 — 「空院寺」と「新明神社」のそれぞれに伝説があり、縁起も残されています。空印寺には「八百比丘尼入定洞」が伝わり、洞窟の前には比丘尼が植えたとされる椿の木が残っています。椿は永遠の生命の象徴とされ、比丘尼の伝説と重なります。
  • 和歌山県日高川町 — 「小竹(おだけ)八幡神社」がゆかりの地とされています。
  • 福島県喜多方市 — 「金川寺(きんせんじ)」に伝説が残されていて、八百比丘尼像があり、毎年5月2日に御開帳が行われます。
  • その他の地域 — 新潟や和歌山などにも類似の伝承が散見され、日本各地に「人魚の肉」「比丘尼」「長寿」という物語の要素が点在しています。

このように、八百比丘尼は特定の土地に限らず、全国規模で語られ続けてきた伝説です。

栃木・真名子に伝わる「おびくにさま」

栃木県栃木市西方町真名子にも、八百比丘尼伝説が残されています。ここでは「八百比丘尼」と書いて「おびくに」と読むのが特徴的です。「八百」を読まず、「比丘尼」に尊称「お」をつけた呼び方で、地域の人々が親しみと敬意を込めて伝えてきました。

真名子に伝わる由緒は「五代尊 八百比丘尼略縁起」という古文書に記されており、伝承の基盤となっています。これは、多くの地域の口承伝説とは異なり、史料として残されている点で特に貴重です。

小松義邦氏の研究と伝承の継承

郷土史家・小松義邦氏は、真名子に伝わる八百比丘尼の伝承を長年にわたり調査・研究してきました。

  • 1998年 「第3回八百比丘尼サミット」にあわせて冊子『伝説 八百比丘尼』を、中心メンバーとして制作。真名子の古文書や地域に残る伝承を紹介しました。
  • 2019年 『真名子の地名と伝説の旅』を刊行。地域の伝説や地名の由来を体系的にまとめ、八百比丘尼伝説の位置づけをさらに深めました。
  • 2024年 『真名子の里「伝説 八百比丘尼」を追う』を刊行。初期の研究からさらに発展し、地域資料の掘り起こしや比較検証を加えた内容となっています。

このようにして、真名子の「おびくにさま」は、単なる伝説ではなく、郷土史研究と結びついた歴史的な遺産として現代に伝えられています。

真名子伝承の魅力

真名子の八百比丘尼伝説には、いくつかの特徴があります。

  • 全国的な「不思議な肉を食べて不老不死となった」という物語と共通する部分を持ちながら、地域独自の呼び方「おびくにさま」として親しまれている。
  • 古文書「五代尊 八百比丘尼略縁起」があり、伝説に実証性を持たせている。
  • 地元の郷土史家が調査・出版を重ね、伝承が単に語られるだけでなく研究対象となっている。

これらの点は、真名子の伝承が単なる「昔話」ではなく、地域文化の一部として継承されていることを示しています。

まとめ

八百比丘尼は、日本各地に伝わる伝説ですが、栃木・真名子の「おびくにさま」には独自の価値があります。全国伝承の一端を担いながらも、古文書に裏付けられた信頼性と、地域の人々による研究と継承が息づいているからです。

関連記事・リンク集

参考書籍

  • 小松義邦『伝説 八百比丘尼』(1998年)
  • 小松義邦『真名子の地名と伝説の旅』(2019年)
  • 小松義邦『真名子の里「伝説 八百比丘尼」を追う』(2024年)

祝 西方城址 国史跡指定!「中世を生きた西方氏」

「中世を生きた西方氏」は、小松義邦氏が編集・著作を行い、2024年(令和6年)7月に発行した冊子です。

西方城址が国史跡に指定されたことを機に、正史として「西方町史」に書かれている以外の西方氏の姿を、小松義邦氏が「今まで見てきたものをまとめてみました」と描いたものです。

●西方氏系図
栃木県立博物館所蔵の「宇都宮 西方系譜」から、西方氏の系図の部分を、小松義邦氏が口語文にしています。元祖景泰から十代景高までの紹介文です。

●中世を生きた西方氏
各種文献に掲載されている西方氏をめぐる出来事を、宇都宮氏の発祥~西方氏の発祥~西方城落城と、年代に沿って、小松義邦氏が解説を入れながら綴っています。多くの文献・書物にあたる探求心と調査力があり、どこに何が書かれていたかの記憶力が秀でている小松義邦氏ならではの、各文献での相違点などがわかる、貴重な内容となっています。

「西方遠江守烏丸殿居城之図(栃木県立文書館)」という西方城の地図についての詳細解説を掲載。
「西方氏の墓所」という項目を立てて、西方氏の墓所がどこにも発見されていないことについての小松氏の推論が書かれています。

その後には、下記が続きます。

●『年表 西方氏』/西方町史掲載の西方氏の年表に加筆

●『西方氏「先祖連牌」について』/九代景英が奉納したとされる西方町の実相寺の「先祖連牌」についての詳しい解説

●『西方城主の代数についての試算』/西方氏の「○代」について、宇都宮系譜と西方記録系図を併記しながら相違を明らかに

●『人名帳』/西方氏の入部から近世末までの記録に残った人々

※資料『西方記録の読み下し文』『西方軍記・巻三の口語訳』も。

冒頭10ページに、西方町の写真家・古澤悦夫氏(元西方町長)撮影の西方町の風景などのカラー写真があり、目を楽しませてくれます。

2024年(R06年)
B5版・180P
編集・著作/小松義邦
発行/小松義邦

こちらの冊子は、栃木市の各図書館でご覧いただくことができます。
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お問い合わせはこちら

小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/真名子の八百比丘尼伝説、皆川広照・皆川氏、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

『現代語訳 皆川一族』は、昭和に少部数作られた皆川一族の系図集を現代語訳したものです。付録の皆川文書「都賀笠」の現代語訳も貴重です。

皆川広照関連冊子 7冊目。

皆川広照の関連冊子を作成している小松義邦氏が、7冊目として2026年6月に発行した冊子は、『現代語訳 皆川一族』です。

発行の経緯

(本書「まえがき」より)
「都内八王子市にお住まいの皆川昌幸様から……お便りをいただいた。そのようなご縁から、皆川昌幸家のご先祖の方の発案をもとにして出版されたといわれる貴重本の、皆川家に残されていたものを閲覧させていただくという思いがけない幸運に恵まれた。』という経緯から、本書の発刊となりました。

昭和49年(1974)・昭和61年(1986)に発行された「皆川一族」

今回の書籍のメインとなるのは、皆川一族の系譜について書かれた、2冊の冊子です。
皆川氏の大祖とされる「藤原鎌足」から各地に広がった皆川氏までを、多くの家系図を取り入れながら解説しているものです。

文体が古く現代の人には読めないものであるため、小松氏が初の現代語訳を行って、当書籍となりました。

昭和49年発行の「皆川一族」

本書では「第一編」としています。
当時岩手県一関在住だった皆川丑之助氏(上記皆川昌幸様の祖父様)が発案し、「日本家系協会」(銀座にあった・家系を調査して出版していた)が、調査・編集・出版をした、300部限定の冊子です。

「長沼氏から皆川氏への関連系図や、皆川広照を主としていて、その子孫、傍系の系図集ともいうべきもので、『皆川正中録』『下野国誌』『寛政重修諸家譜』などからの研究が主になっているようである(小松氏「まえがき」より)」というものです。

昭和61年発行の「皆川一族」

こちらは、12年後に、同じく「日本家系協会(日本家系家紋研究所)」が調査・編集・出版をした、300部限定冊子です。本書では「第二編」としています。

「前書のあとを追うかたちで、全国に散在する『皆川氏』の展開模様を克明にたどり、系図も多彩に取り上げているという貴重本である(小松氏「まえがき」より)」というものです。巻末資料には、皆川家の58個にわたる家紋についての紹介もあります。

※上記は、皆川昌幸氏提供による原本コピー

小松義邦氏による付録の3つのエピソード

小松氏が、系図の話だけでは退屈な時間もまじるだろうからと、付録として3つのエピソードを掲載しています。
一つ目は、再起した広照が大名となった、常陸国(現在の茨城県)の「府中藩」について。
二つ目は、小松氏が「皆川広照伝」からまとめ直した、広照の子・隆庸の後継ぎをめぐる、本家断絶の悲運になった、長男・次男入れ替えの話。

そして、三つ目は皆川文書「都賀笠」の、小松氏による初めての現代語訳です。
安政6年(1859)に皆川十五代当主皆川森之助が神田神保町で没した際に、その柩が皆川家の菩提寺である金剛寺(栃木市皆川城内町)まで運ばれました。「都賀笠」は、その葬送の道中の記録です。

金剛寺住職の祝辞と、カラー写真10点を掲載

巻頭には、皆川氏の菩提寺である金剛寺住職の柿上大岳氏からの祝辞が掲載されています。

また、栃木市西方町の写真家・古澤悦夫氏(元西方町長)撮影による金剛寺所蔵の掛け軸2点と墓所写真、皆川昌幸氏撮影の岩手県一関市藤沢町保呂羽地区の皆川一族墓所写真等、合計10点のカラー写真を掲載しています。

第一編

第一編[1] 大祖 藤原鎌足

皆川氏の祖とされる藤原鎌足についての紹介、および、そこからの系図を掲載しています。
 〈計8ページ〉

第一編[2] 皆川一族

長沼氏のうちのひとりが皆川の地に住んで城を築き、皆川氏(第一次皆川氏)となり、その後長沼氏の名乗りとなり、再び皆川氏が名乗られるようになり(第二次皆川氏、その五代目が皆川広照)……という流れが記載されていて、系図もしっかり掲載されています。 〈計21ページ〉

第一編[3] 藤原秀郷流足利氏流皆川一族

上記【2】とは別の流れの皆川一族について紹介しています。 〈計2ページ〉

第一編[4] 江戸幕臣 皆川一族

藤姓の皆川一族で徳川幕府に仕えた流れの4家について、『寛政重修諸家譜』より紹介しています。ひとりひとりについて、1行~数行の紹介文があります。
◆藤姓秀郷流皆川宗家/20名  皆川広照は38行、隆庸は20行の紹介文
◆皆川別家(壱)/6名
◆皆川別家(弐)/5名
◆皆川別家(参)/9名
〈計16ページ〉

第二編

第二編[1]藤原秀郷流の皆川氏

皆川氏の多数の世系の中で、最も有名でしかも広く繁栄したのが、北関東の藤原秀郷流の皆川氏で、その最初の頃について記載しています。第一編の[1]で描かれた大祖の藤原鎌足からの系譜です。都賀郡皆川村に住んで、長沼から皆川へ姓を変えた宗員についての系図記載もあります。 〈計6ページ〉

第二編[2]再興(長沼系)皆川氏

皆川広照が属する系譜です。上記[1]の連なりにあります。第一編の[2][3]でも描かれていますが、別の内容となっています。 〈計5ページ〉

第二編[3]近世の皆川氏諸流

「下野の皆川城の城主であった皆川氏の子孫は、諸流に分かれ、それぞれの系を伝えている(本書記載)」とのことで、下記を記載しています。
◆山城守広照の系
◆市正宗富(いちのかみむねとみ)の系
◆又一郎広長(広照の弟)の後
〈計8ページ〉

第二編[4]奥州各地の皆川氏

鎌倉時代後期から奥州に転居した皆川氏があり、この章では下記が掲載されています。
◆会津若松地方の皆川氏
◆仙台の伊達藩に仕えた皆川氏
◆常陸の佐竹氏に仕えた皆川氏
〈計6ページ〉

第二編[5]諸国諸流の皆川氏

各地のさまざまな皆川氏について、複数の系図とともに、記載されています。 〈計9ページ〉

第二編[6]苗字の移動と家紋の変遷

「皆川」に限らず、「各地の氏族が祖宗の地を離れて各地に居住(本書88頁)」して「苗字の移動」となったタイミングが、歴史上大きく5回あったとして、解説が記載されています。また、皆川氏のように同じ○○家でありながらなぜ家紋が異なっているのかについての解説もあります。

第二編 資料

原本にあった「皆川一族主要家紋」「年号索引」「日本国県対照表」を転載しています。
皆川氏研究にとって興味深いのは「皆川一族主要家紋」で、家紋の図自体で10点、加えて、説明文(「左逆さ巴」「丸に三つ柏」等)として48が掲載されています。

小松氏による付録 

「系図集を読むというやや退屈な時間がまじる読書タイムが終わり、おくつろぎいただくために提供させていただくのは、皆川家関連の3つのエピソードです」として、小松氏による付録がついています。

小松氏による付録[1]再起した広照の「府中藩」について

1609年に改易(領地没収)された広照は、大坂の陣での親子の活躍が認められて赦免され、常陸国府中藩1万石を与えられて大名に復帰しました。76歳の時です。
この常陸国(現在の茨城県)の府中藩(明治二年に石岡藩と改称)についての、各書からの紹介を掲載しています。 〈計9ページ〉

小松氏による付録[2]隆庸家の継嗣争い

小松氏が「皆川歴代記」からまとめ直した、広照の子・隆庸家の、後継ぎをめぐるエピソードを掲載。「長男と次男の入れ替えがあったため、本家断絶の悲運になりましたが、それはなぜ起きたのかという、だぁーれも知らなかったお話(小松氏本文より)」とのこと。 〈計4ページ〉

小松氏による付録[3]現代語訳「都賀笠」(皆川文書)

「皆川十五代当主皆川森之助が神田神保町で没した際に、その柩が皆川家の菩提寺である金剛寺(栃木市皆川城内町)まで運ばれました。その葬送の道中の記録が、皆川文書『都賀笠』。……随所に俳句を配した趣(おもむき)のある爽やかな感じの道中記です(小松氏本文より)」とのことです。

小松氏による、初の現代語訳で読むことができます。
◆昭和53年(1978)に雑誌掲載時の皆川又太郎氏の前書きが3ページ。
◆都賀笠が9ページ。
〈計12ページ〉

奇跡の一冊

「皆川一族」発案者の孫の皆川昌幸氏から、小松氏作成の皆川関連書籍の購入申し込みがあり、やりとりの中で冊子の存在が小松氏に伝えられ、この現代語訳としての作成となりました。

原本としての「皆川一族」は、昭和の出版物とはいえ、古い文体で、手書き文字で書かれています。出版部数も各300部で、皆川広照公を研究している小松氏も存在を知らなかったそうです。
「皆川」の一族を多数の家系図とともに体系的にまとめている貴重な内容でありながら、皆川昌幸氏と小松義邦氏の出会いがなければ、現代語訳としてよみがえることはなく、埋もれたままだったのだろうと思います。

また、付録としての皆川文書「都賀笠」は、「研究に役立つ」という内容ではありませんが、東京の神田神保町から栃木の皆川まで棺を運ぶという、今では考えられない行動を追うことができ、その道中での思いや雰囲気をリアルに感じることができる、味わいぶかい道中記です。
こちらは昭和53年に雑誌に掲載されたのみで、かつ古い文体なので、小松義邦氏がこの「現代語訳 皆川一族」の作成を決め、温かいエピソードの掲載を思い立って、現代語訳での掲載を行わなければ、知られることもなかったことでしょう。

この「現代語訳 皆川一族(付録・都賀笠)」は、ある意味、「奇跡の一冊」なのだと思います。

刊行情報

2026年6月(令和8年)
A5版
現代語訳・編集/小松義邦
発行/小松義邦

800円+送料210円でご購入いただけます。併せて下記もご購入可能です。

現在購入できる、皆川広照関連冊子(小松義邦氏作成)
現代語訳 皆川一族 800円
皆川広照の小田原合戦 1000円
皆川広照、再起への道~幸嶋若狭大坂物語を読む~ 800円
皆川家臣帳(改訂版として2025.9再販) 600円
口語 皆川歴代記(改訂版として2025.8再販) 800円
現代語訳 別本 皆川正中録(2025.7再販) 1300円 
復刻版 皆川広照伝 (残部僅少) 700円 ※皆川街づくり協議会発行冊子の取次販売

※郵送の場合、1冊につき送料210円です。
ご購入申し込み・お問い合わせはこちら

お問い合わせはこちら

小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/真名子の八百比丘尼伝説、皆川広照・皆川氏、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

『皆川広照の小田原合戦』には、百人越えの家臣とともに脱出した決死の姿と、茶人としての皆川広照が描かれています。

興味深い内容の、皆川広照関連冊子。6冊目。

皆川広照をめぐる価値ある冊子を作成している小松義邦氏が、また興味深い内容の冊子を2026年2月に刊行しました。タイトルは『皆川広照の小田原合戦』です。

描かれているのは小田原合戦のもとでの皆川広照です

「小田原合戦(小田原征伐、小田原の役)」は、天下統一に向かう豊臣秀吉が、天正18年(1590年)に、関東を支配していた北条氏政・氏直親子を小田原にて倒した戦いです。この勝利によって秀吉の天下統一が達成されました。

この合戦の特徴的だったことは、北条氏側が、自陣である小田原城の城下町を丸ごと土塁と空堀で囲む、全長九キロにわたる「総構(そうがまえ)」を作ったことです。

皆川広照は約150人の家臣と共に、北条方として参戦せざるを得ず、この「総構(そうがまえ)」の中にいました。広照42歳。居城を皆川城から街中の栃木城に移して栃木のまちを作るよりも前の話です。

広照の、あまり知られていないふたつの姿

この冊子で描かれているのは、あまり知られていない、皆川広照のふたつの姿です。

ひとつは、小田原の広大な籠城エリアから100名以上の家臣とともに脱出をした広照。脱出については有名な話で、数行の記載であれば多数の書物にあるのですが、そこに焦点を当てて考察をしているものはあまり見ません。小松氏は、多数の書物からその個所を引用した上で、歴史的な背景や状況から、大胆な仮説を用意して、おそらくそうであったのではないかと思える脱出の様子を描いています。

もうひとつは、その籠城エリアで茶の湯をたしなみ、千利休の愛弟子から秘伝の書を授与されていた茶人としての広照です。広照の茶人としての側面について、あまり語られることはありませんでした。今回、小松氏は、茶の湯の流行や、信長・秀吉と千利休の関係などについてもわかりやすく説明してくれた上で、小田原の籠城の地ではぐくまれた山上宗二と広照の関係について描いています。

本冊子の概要

(本書「まえがき」より)
「皆川広照は、利休の一の弟子といわれた山上宗二(やまのうえそうじ)から茶道の秘伝書を授けられた関東一の数寄大名(数寄者=風流の道を解する人)だ。また、この広照が小田原籠城の関東武士の中で最初の降伏者であったのも興味深い。」
と、著名な桑田忠親氏がその著書『利休の書簡』で称賛された数寄大名皆川広照の姿を、その茶道の師である山上宗二とあわせて、ぜひとも探ってみたいと思って今回のテーマに取り組んで、あっというまに半年がたちました。
……(中略)……今回の小田原合戦は、広照の知られざる「茶人=数寄者」としての顔が、多くの家臣を救う道につながったのではないかということを探ってみました。私の手探りでの叙述部分へのご批判を承知の上で、えっ!と思っていただける「皆川広照家臣団の小田原城脱出劇」を展開させて頂きました。
……(後略)……

カラー写真9点を掲載

栃木市西方町の写真家・古澤悦夫氏(元西方町長)撮影による、金剛寺所蔵の広照の茶道具一式および「山上宗二記」の写真(計6点)と、丸山真由美氏による小田原城の写真、早川の写真等、合計9点のカラー写真を掲載しています。

章別紹介

[1] 「小田原籠城戦 討死者名簿」の発見

自身が取りまとめた複数の皆川家家臣の討死者名簿に、小田原籠城戦の討死者としての記載がないことを不思議に思っていた小松氏が、……(以下、本書P6より抜粋)【 最近に至り、『皆川家臣帳』をまとめる端緒となった『皆川広照伝』及び『下野戦国史』の付録の「家臣帳」を精読する機会があった。同内容を記載した大森隆司氏の小田原の部の記述に「小田原籠城戦」と書かれている部分に討死者の名を見つけた時に息を呑む思いがした。】……となり、「小田原合戦」を「改めて考えてみたいと思った」となった流れが述べられています。

[2] 北条五代の進出と下野

のちに「後北条」と呼ばれるこの「北条氏」について、初代「北条早雲」から氏直までの五代で、どのように北条氏が領土を拡大し、関東を支配するようになったかをまとめています。

そして、下野について、北条氏と宇都宮氏・佐竹氏の対立の狭間に立たされていた皆川広照が、皆川氏と北条氏の最大の激戦「草倉の戦い」を契機に徳川家康を仲立ちとしてどう和解したかが解説されています。また、皆川氏と隣接する壬生氏の動向についても記されています。

[3] 小田原合戦への道

天下統一に向かう秀吉は、まずは家康を家臣とし、その後、関東を支配する北条氏に上洛(京の都に来て秀吉への平伏を行うこと)を迫り続けました。その後北条氏は平伏しますが、北条側の一家臣・猪俣邦憲による名胡桃城強奪をきっかけに秀吉は北条討伐を宣言し、受けて立つしかなくなった北条側は、小田原府内を囲む約9kmの外郭を作り対抗します。
その大きな流れと詳しい状況について、わかりやすく記載しています。

[4] 皆川広照・壬生義雄両勢の小田原籠城戦

皆川広照と壬生義雄がその籠城戦に加わることになった経緯が描かれています。また、実際にどのような場所で守りについたのか、「陣取図」「陣図」も引用掲載し、わかりやすく説明しています。

[5] 薄氷上の小田原城郭!

この籠城という戦法が時代に合わなくなっていたことの解説や、小田原の外郭内の様子の描写があります。皆川広照脱出の直前の小田原城郭の姿がわかります。

[6] 起死回生! 小田原城より広照脱出

皆川広照が家臣百余人を連れて小田原から脱出した、という史実について、小松氏ならではの調査力でさまざまな文献から引用掲載を行い、解説がつけられています。昭和34年(1959年)刊行の『利休の書簡(桑田忠親著)』をはじめ、昔に書かれた戦記3点、栃木市・小田原市の行政刊行物4点、昭和・平成の歴史解説書4点、昭和・平成の研究書4点と、多数の文献でどのような記載になっているかを知ることができます。

そのうえで、そこには描かれていない4つの謎(脱出の隊列の様子、山上宗二の同行はあったのか、討死の状況について、迎撃がなかったであろうこと)についての、小松氏の考察が記されていて、とても興味深いものになっています。

[7] 広照脱出の事前通告を山上宗二が行ったという仮説

皆川広照の脱出の「成功」に、小田原城郭内での茶の湯の師であった山上宗二が関わっていたと思われるという、小松氏の仮説が展開されます。

[8] 広照が授かった茶道の秘伝書『山上宗二記』

菩提寺である金剛寺に皆川広照の茶道具複数点と『山上宗二記』の写本が所蔵されているのですが、広照が茶人であったこと、特に、千利休の愛弟子である山上宗二から秘伝の書を授かっていたことについてはあまり知られてはいません。

この章では、この時代に茶道がどのようなものであったか、華美に向かおうとする秀吉の茶道に「侘び」に重きを置く山上宗二がどのように反発していたかを記し、彼が広照を最後とする6人の弟子に遺した「山上宗二記」について、研究書6点からの引用掲載で解説しています。
広照との関連や、広照に遺された「山上宗二記」についてなどにも触れられています。
そして、山上宗二の謎多き死について、小松氏の仮説を記しています。

[9] 小田原合戦の終結

小田原合戦がどのように終結していったかについて記載したあと、小田原合戦に見られる広照の姿、どれだけ「ついていた」ことで脱出が成功したのか、小田原合戦をくぐり抜けたことが広照に何をもたらしたのかを、温かな視線で記しています。

[付録] 現代語訳『異本 小田原記(五)』

付録として、『異本 小田原記』の「巻の五」を、小松氏が現代語に訳したものを、39ページにわたって収録しています。これは、「小田原合戦が終わって間もない頃に北条方の生き残りの武士が綴ったとされる戦記(本冊子P54)」です。
「小田原合戦の模様を気楽に楽しんでいただくことと、戦記物にも親しんでいただくことを願って(本書P139)」との思いで訳出したとのこと。
読みやすい現代語訳になっています。江戸時代よりも前の、この合戦当時に誰かが書いた物語である、ということが、なんだか不思議です。

貴重な一冊

小田原合戦における皆川広照という、詳しくまとめられてくることのなかったテーマを、多くの文献からの引用掲載と解説、時代の流れの説明、大胆な仮説の展開で、わかりやすく、そして興味深くまとめあげていて、皆川広照研究の新たな一冊として、貴重なものとなっていると思います。

さまざまな文献に掲載されている内容が一目瞭然となっているのは、小松氏の読書量の多さと記憶力と調査力の賜物(たまもの)で、感嘆します。また、脱出の際の宗二の関わりや討死者の討死理由についての仮説や、宗二の死の理由についての仮説など、他の研究者がこれまで唱えて来た推測とは異なる説の記載があり、「史料に基づくものではない」ながら説得力のある仮説となっていて、とても「おもしろく」読むことができます。

下野新聞 掲載記事

刊行情報

2026年2月(令和8年)
A5版
著者/小松義邦
発行/小松義邦

1000円+送料210円でご購入いただけます。併せて下記もご購入可能です。

現在購入できる、皆川広照関連冊子(小松義邦氏作成)
現代語訳 皆川一族 800円
皆川広照の小田原合戦 1000円
皆川広照、再起への道~幸嶋若狭大坂物語を読む~ 800円
皆川家臣帳(改訂版として2025.9再販) 600円
口語 皆川歴代記(改訂版として2025.8再販) 800円
現代語訳 別本 皆川正中録(2025.7再販) 1300円 
復刻版 皆川広照伝 (残部僅少) 700円 ※皆川街づくり協議会発行冊子の取次販売

※郵送の場合、1冊につき送料210円です。
ご購入申し込み・お問い合わせはこちら

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小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/真名子の八百比丘尼伝説、皆川広照・皆川氏、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

『皆川広照、再起への道~幸嶋若狭大坂物語を読む』は、皆川広照の失脚から、再起を賭けた大阪の陣とそのあとまでが描かれています。

その前に……「皆川正中録」再販のおしらせ
多くのご要望をいただいていた「現代語訳 別本 皆川正中録」が再販となりました。唯一の口語訳冊子です。詳しくはコチラ→ 「現代語訳 別本 皆川正中録」再販のおしらせ

皆川広照関連5冊目として2025年6月刊行

栃木市が誇る戦国武将といえば、皆川城の最後の城主「皆川広照」です。
関連冊子を4冊発行してきた小松義邦氏が、5冊目として2025年6月に発行したものが、『皆川広照、再起への道~幸嶋若狭大坂物語を読む』です。

読みどころ1 「幸嶋若狭大坂物語」の初の活字化・初の口語訳(=現代語訳)

読みどころのひとつは、『幸嶋若狭大坂物語』です。これは、皆川広照・隆庸父子が皆川家の再興を賭けて参加した「大阪の陣」の様子を、共に参加した、広照の重臣の幸島若狭(こうじまわかさ)が、戦地にて日々書き付けた戦いの記録です。

江戸時代以降、さまざまな史料や研究書で引用元とされてきながら、活字化されてこなかったその書の、初の口語訳(=現代語訳)です。

読みどころ2 前説と解題 皆川広照の失脚以降を鮮明に描写

それだけでも価値あるものですが、さらに小松義邦氏は、この書の解説として、「前説」「解題」を記述していて、そちらも大きな読みどころとなっています。

大阪の陣の理解を深めるための歴史的な流れについての解説とともに、広照・隆庸の失脚と失脚以降の様子、そして、大阪の陣での様子とその後が詳細に描かれているのです。

「まえがき」で小松義邦氏が書いているように、皆川広照の、皆川城主だった全盛期のころの姿はよく知られるところですが、家康の勘気を受けて失脚して以降について詳しく書かれた書はありません。

唯一、皆川家の子孫の皆川又太郎氏が非売品として昭和五十二年に作成した『皆川歴代記』があり、小松義邦氏が口語訳(=現代語訳)で発行しているのですが、「代々伝わる古文書を読み下し文として残したものであるため、口語訳で読みやすくはしたけれど、誰にでもわかりやすい内容・記述というわけではない」という状況です。

そうしたなかで、本書は、広照の失脚から再興、その後までを、わかりやすくまとめています。小松氏が「皆川家に関心をもたれる方への大きな贈り物として受けとっていただけるのではないかと思う」と書いた、まさにそういう書となっています。

「藩鑑(はんかがみ)」の皆川の部の口語訳(=現代語訳)も

なお、「藩鑑(はんかがみ)」という書の皆川の部も、小松義邦氏による口語訳(=現代語訳)が掲載されています。

カラー写真8枚を掲載

栃木市西方町の写真家・古澤悦夫氏(元西方町長)撮影によるカラー写真が、金剛寺所蔵の広照の鎧、幸島若狭の眠る幸島家の菩提寺「傑岑寺(けっしんじ)」の風景、等、8点掲載されています。

改訂版について

初回本を出して間もなく、より分かりやすく構成を組み替え、新しい情報も追記した「改訂版」が発行されました(初回本にあった「藩鑑」の原本・読み下し文はなくなっています)。当記事は、その改訂版に基づく内容になっています。

貴重な一冊

巻末記載の参考図書の多さからもわかるとおり、さまざまな書にかかれた内容を、小松氏が調査力と記憶力で縦横無尽に発見して引き出して、事柄と事柄を歴史的な観点から論理的につなげる力で、鮮やかに、当時の広照・隆庸父子の姿を描いていて、貴重な一冊となっています。

各章の概要

■前説

こちらの計10ページでは、皆川広照が徳川家康の勘気に触れて失脚したいきさつと、その後、名を「老圃斎」と改め、大坂の陣までの5年間、隆庸とともに「蟄居謹慎」した姿を記載しています。そして末尾で、『幸嶋若狭大坂物語』の概要を掲載しています。
 ◆大坂の陣410年記念の年
 ◆皆川広照の失脚(計5ページ)
 ◆皆川老圃斎と智積院(計2ページ)
 ◆『幸嶋若狭大坂物語』 (計2ページ)

■口語訳 幸嶋若狭大坂物語

本書の読みどころの一つ、「幸嶋若狭大坂物語」の初の口語訳(現代語訳)です。
原書の趣を残しての現代語訳となっています。
 ◆大坂冬の陣(計10ページ)
 ◆夏の陣の覚え(計11ページ)
 ◆大和口の様子聞書(計8ページ)

■口語訳 藩鑑 「皆川広照・隆庸の部」

『藩鑑』は、小松氏のまえがきによれば、「嘉永元年・1848に林復斎が幕府の命を受けてまとめたもので」「徳川氏の創業当初から第八代将軍吉宗の時代までの、約500大名の言行を採録したもの」です。
その「皆川」の部と「隆庸」の部の、小松氏による、初の口語訳(現代語訳)です。
 ◆小松氏の解説 計1ページ
 ◆皆川 計16ページ
 ◆隆庸 計2ページ

大坂夏の陣で広照が忠輝の陣中に参上して進言する姿の描写が、二か所で書かれていて、小松氏は片方が真実で、片方は真実ではないだろうとまえがきで述べています。その真実と思われる方の記述のところに、引用元として「幸嶋若狭大坂物語」の表記があり、「幸嶋若狭大坂物語」の口語訳(現代語訳)と同様の記載であることがわかります。

■解題 前半

大坂の陣に至る時代の流れと、冬の陣・夏の陣の全体像が、小松氏によりまとめられていて、計24ページあって詳しくわかります。
 ◆序
 ◆三人の英傑~信長・秀吉・家康~
 ◆関ヶ原の役から大坂の陣へ
 ◆大坂冬の陣、はじまる
 ◆冬の陣の講和(和睦)
 ◆夏の陣、はじまる
 ◆夏の陣のおわり

■解題 中ごろ

中ごろの3章で、小松氏が、大坂の陣での広照・隆庸の様子を、計13ページで記載。
「皆川歴代記」「皆川家臣帳」「幸嶋若狭大坂物語」などを引用しての記述となっています。
 ◆広照・隆庸の動き~冬の陣から夏の陣へ~
 ◆父子それぞれの陣借り先について
 ◆若江口での戦いと隆庸の奮戦

■解題 後半

そして「解題」の後半の4章で、大坂の陣以降の広照・隆庸が描かれます。

◆まだ来ない春(計6ページ)
大坂の陣が終わって何年経っても「赦免」の話が来ない様子と、その理由についての小松氏の考察が記載されています。「日本の戦記・大坂の役」「廃絶録」「恩永録」などからの引用を行いながらの記述となっています。

◆皆川家の再興(計3ページ)
皆川家再興となったいきさつなどが描かれています。

◆徳川秀忠・家光に信頼された広照父子 ~広照、御伽衆に抜擢される~(計8ページ)
あまり語られて来なかった「御伽衆(おとぎしゅう)」としての江戸城での広照の様子を、前述の書以外に「東国闘戦見聞私記」などからも引用しながら、温かく描いています。

◆その後の皆川家(計3ページ)
「皆川歴代記」「徳川十五代史」などの記述から、皆川家のその後が紹介されています。

■まとめ 幸嶋若狭の紡いだ物語(計2ページ)

大坂の陣から戻った幸嶋若狭とその後の幸嶋家について、そして、「幸嶋若狭大坂物語」について、記載しています。また、その後ろに「幸嶋家」について、その菩提寺である「傑岑寺」についての掲載もあります。

下野新聞 掲載記事

刊行情報

※「幸嶋若狭大坂物語」は、書名としては「幸島若狭大坂物語」と表記する場合もあるそうですが、この冊子では、書名は「嶋」の字を、人名は「島」の字を採用しています。

2025年6月(令和7年)
A5版
著者/小松義邦
発行/小松義邦

こちらの冊子は、栃木市の各図書館でご覧いただくことができます。
――――――
在庫があるので、800円+送料210円でご購入いただけます。併せて下記もご購入可能です。

小松義邦氏作成、皆川広照関連冊子
現代語訳 皆川一族 800円
皆川広照の小田原合戦 1000円
皆川広照、再起への道~幸嶋若狭大坂物語を読む~ 800円
皆川家臣帳(改訂版として2025.9再販) 600円
口語 皆川歴代記(改訂版として2025.8再販) 800円
現代語訳 別本 皆川正中録(2025.7再販) 1300円 
復刻版 皆川広照伝 (残部僅少) 700円 ※皆川街づくり協議会発行冊子の取次販売

※郵送の場合、1冊につき送料210円です。
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お問い合わせはこちら

小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/真名子の八百比丘尼伝説、皆川広照・皆川氏、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

コラム/江戸時代に書かれた戦記物「皆川正中録」(主人公・皆川広照)の「唯一の現代語訳」の価値をご紹介します。※2025年7月再販

皆川正中録 再販

2025年7月、小松義邦氏による現代語訳「皆川正中録」が再販となりました。初版は2022年(令和4年)6月で、ご要望が多かったための再販決定です。唯一の現代語訳です。(以前の書名「口語 別本 皆川正中録」を2025.12の5刷で「現代語訳」と改訂しました)
詳しくは→ 「現代語訳 別本 皆川正中録」再販のおしらせ

この冊子自体のご紹介は コチラの記事 でしています。

唯一の現代語訳ができるまで、をご紹介

今回は、小松義邦氏に、複数の史料を出してもらいましたので、唯一の現代語訳ができるまでの流れをご紹介したいと思います。

そもそも皆川正中録とは

「皆川正中録」は、皆川城の最後の城主であり栃木城を築いた「皆川広照」を筆頭とする皆川氏の戦記物で、17世紀から18世紀初期頃に書かれたとされています(『栃木県大百科事典』)。多くの人たちに親しまれ、江戸時代には筆写して家に残すほど、地元では歓迎されてきました。
作者の記載がどの写本にも載っていないため、作者名はわかりません。これだけ長く存在が知られている戦記物なのにそんなことあるのね、と驚きですよね。

小松氏によると、登場人物たちが実在の武士たちの名前であるため、複数の地方自治体史(町史・村史)に、史実と誤解されて、誤った記載が残っているそうです。


史料(1)/ 写本1(原文)

まずは、こちらが、栃木県立図書館で入手できる写本です。

江戸時代に誰かが原文を手書きで写したものです。コピー機のない時代、手元にこの戦記を残したいと思った人々が、こうして手書きの写本を作っていたわけです。
小松氏いわく、「関心があって目にしていたけれど、当時の我々は『西方町郷土史研究会』だったので、他の市町村についての古文書を解読する流れはなかったのだよね」とのこと。
ちなみに、漢字だけではなくカタカナが使われていることが意外でした。


史料(2)/ 明治時代の書籍(読み下し文)

明治30年(1897年)に、皆川正中録の一部を講談調の読み下し文にして、「皆川戦記」のタイトルで書籍が出版されました。何かの雑誌に30回にわたって連載されたものをまとめたものだそうで、東京市日本橋の一二三館(ひふみかん)と栃木町の白石東光堂の連携での出版です。それがこちらです。(コピーしたものです)

原文を「読み下した」もので、漢字のすべてにフリガナがついていますが、読点(、)はあるものの句点(。)がなくて一文の区切りがわからないものとなっています。現代ではなかなかこれを読み通せる人は少ないでしょう。


史料(3)/ 昭和の書籍(読み下し文)

昭和11年(1936年)に、鹿沼町の「下野郷土史研究会」から5巻本(第五巻が欠落)(著・大谷瀬平)が出版され、昭和38年(1963年)に、第五巻を補った全6巻の「考註 戦国大名秘録(皆川正中録・全六巻)」(著・日向野徳久)が出版されました。

両書籍とも「読み下し文」で、句読点はありますが、ふりがなが全くありません。


原文と読み下し文のみでした

「皆川正中録」は栃木エリアで有名でありながら、ずっと上記の「原文」「明治の読み下し文」「昭和の読み下し文」でしか存在していませんでした。


史料(4)/ 写本2(原文)――中田益雄家文書

昭和55年(1980年)に、当時の西方町本郷の中田益雄家から二千余点の古文書が県文書館へ寄託されました。その中に全六巻の皆川正中録の写本があることを、西方町郷土史研究会の荒川哲男氏が発見しました。コピーした冊子がこちらです。

小松氏いわく、「西方町の旧家から出た、ということで、私たち『西方町郷土史研究会』が動くことは自然でしたので、荒川哲男氏が解読して解読文を作成し、その解読文をベースに私が読み下し文と口語文を作成して、解読文の冊子と読み下し文・口語文の冊子を『西方町郷土史研究会』で発行しました」。

ちなみに、冒頭の写本は漢字とカタカナで書かれていますが、こちらは漢字とひらがなです。

▼こちらが荒川氏の解読文の冊子です。

▼そして、こちらが小松氏の「読み下し文・口語文」の冊子です。

 ▽読み下し文のページ(下部に小松氏による注釈付き)

 ▽口語文のページ

上記冊子は、B5サイズで、下部に言葉の注釈を多く入れた読み下し文と口語文を掲載した作りでした。

2022年 現代語訳冊子の発行

令和6年(2022年)6月、小松氏が、現代語文だけの冊子作成を行うことを決め、その際に、A5サイズで読みやすいスタイルに改訂しました。

と、そのような流れで、現代語訳「皆川正中録」が誕生しました。口語で皆川正中録が読めるのはこの冊子だけです。現代語なので、物語にすんなりはいりこむことができ、物語を楽しめます。

刊行情報

中田益雄家文書
解 読/荒川哲男
現代語訳/小松義邦
発 行/小松義邦
※栃木市の各図書館でご覧いただくことができます。

2025年7月再販 の詳細は下記です
「口語 別本 皆川正中録」再販のおしらせ

この書籍の紹介ページは下記です
「口語 別本 皆川正中録」は、誰もが気楽に楽しめる、初の現代語訳です。皆川広照が活躍します。

小松義邦氏作成、皆川広照関連冊子
現代語訳 皆川一族 800円
皆川広照の小田原合戦 1000円
皆川広照、再起への道~幸嶋若狭大坂物語を読む~ 800円
皆川家臣帳(改訂版として2025.9再販) 600円
口語 皆川歴代記(改訂版として2025.8再販) 800円
現代語訳 別本 皆川正中録(2025.7再販) 1300円 
復刻版 皆川広照伝 (残部僅少) 700円 ※皆川街づくり協議会発行冊子の取次販売

※郵送の場合、1冊につき送料210円です。
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小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/真名子の八百比丘尼伝説、皆川広照・皆川氏、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。

「現代語訳 別本 皆川正中録」再販のおしらせ 〜皆川広照が活躍する江戸時代の戦記物フィクションの唯一の現代語訳〜

2022年(令和4年)6月に小松義邦氏によって発行された「現代語訳 別本 皆川正中録」が、再販となりました。皆川正中録の全六巻にわたる唯一の現代語訳です。
(以前の書名「口語 別本 皆川正中録」を2025.12の5刷で「現代語訳」と改訂しました)

西方町の写真家・古澤悦夫氏(元西方町長)が撮影した、城址やゆかりあるお寺などのカラー写真20枚が巻頭を飾り、訳者・小松義邦氏による解説・補足説明が随所に挿入されていて、300年前に書かれた「皆川正中録」を現代の私たちが気軽に楽しむことができる一冊となっています。

この本についての詳細は、下記2つの記事をご覧ください。
「口語 別本 皆川正中録」は、誰もが気楽に楽しめる、初の現代語訳です。皆川広照が活躍します。

コラム/江戸時代に書かれた戦記物「皆川正中録」(主人公・皆川広照)の「唯一の現代語訳」の価値をご紹介します

2025年7月再販版
A5版
中田益雄家文書
解 読/荒川哲男
現代語訳/小松義邦
発行/小松義邦
価格/1300円 ※郵送の場合はプラス送料210円。
以前の版との相違点:A4サイズの地図4点をなくしました

※一般流通書籍ではなく、手作り冊子ですので、ご了承の上お求めください。ワープロでの打ち出し原稿を、印刷・製本しています。普段は製本まで小松義邦ご夫婦による手作業なのですが、この再販版は印刷所による印刷・製本です。

小松義邦氏作成、皆川広照関連冊子
現代語訳 皆川一族 800円
皆川広照の小田原合戦 1000円
皆川広照、再起への道~幸嶋若狭大坂物語を読む~ 800円
皆川家臣帳(改訂版として2025.9再販) 600円
口語 皆川歴代記(改訂版として2025.8再販) 800円
現代語訳 別本 皆川正中録(2025.7再販) 1300円 
復刻版 皆川広照伝 (残部僅少) 700円 ※皆川街づくり協議会発行冊子の取次販売

※郵送の場合、1冊につき送料210円です。
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小松義邦氏 略歴
栃木市西方町の郷土史家。
研究対象/真名子の八百比丘尼伝説、皆川広照・皆川氏、西方町の歴史・西方氏ほか
――――――――――
栃木市編入前の西方町にて、町教育員会からの委嘱で1998年(H10年)に西方町郷土史研究会を発足し、史料集めや古文書解読に励む。2011年(H23年)発行の「西方町史」編さん時には一部の執筆を担当し、その後の町発行の「西方町の民俗」の編集も担当するなど、行政から信頼を寄せられる。研究成果を地元に残そうと、私家版として多数の冊子を発行し、地域の図書館への寄贈や、一部の書籍は地元小中学校の生徒に無償での配布なども実施。栃木市皆川町の「皆川地区街づくり協議会 歴史文化部会」からの委託を受けて「皆川広照伝」を復刻。郷土史を研究し、冊子を発行し続けている。